「主の御心なら」

初詣にどのくらいの人が出かけたのか知りませんが、相当な数だったと思いますし、そこでささげられた「願い」はどれほどだったことでしょうか。
聖書を開くと、次の言葉に出会います。

「あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」(ヤコブの手紙4章15節)

これは昔から「ヤコブの条件」と言い、ラテン語のD.V.で表現しています。古い手紙など、その最後によく見られるそうで、ラテン語のDeo volente(神のみこころ)を略したものです。神の御心であれば、あのことやこのことをしよう、というのです。
「一年の計は元旦にあり。」私たちは、今年は、あれをするぞ、これをするぞと、計画を立てます。そのような前向きな考え方はいいのですが、しかし、一つの大事なことは、「主のみこころなら」という姿勢なのです。熱心な人ほど、または切羽詰ると、人は自分の考え方や自分のペースが基準になります。いつの間にか、神に聞くのではなく、自分の考えを、前面に押し出すように変わって行くのです。熱心な人ほど、です。熱心な気持ちは、すべての事に時がある、という「神の時」を大事にできません。自分のしたいことは神のしたいこと、となります。「これが一番いいことなのだ。これをしたい。やるべきだ」と。それが出来ていない人を見ると、何か言いたくなっている。果たしてそこに「主のみこころなら」という姿勢があるでしょうか。自己満足を求めているだけではないでしょうか。何が何でも、こうするのだ、という総理大臣のしたこと(靖国神社参拝)が、内外の厳しい批判を受けていますが、自分を中心に動かしたら、当然、周りに痛みと悲しみ、混乱をもたらすのです。
改めて言うまでもないことですが、私たちの中心に置くのは「自分の心」ではないのです。「主の心」を中心に置き、その主の御心を、私たちの判断の軸とするのです。その人は、あわてずに神の「時」が開かれるのをじっと待つでしょう。しかし、時が来たら即座に行動に移すでしょう。何も出来ない人に見えて、しかし「御心ならば」やり遂げる力を秘めているでしょう。
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by rev_ushioda | 2014-01-03 01:01 | Comments(0)