「大川小学校を訪問」

今年もまた、私は、被災地に行きましたが、その一つ石巻、そしてあの大川小学校にも行きました。津波で児童がたくさん亡くなった、あの学校です。津波で壊れたコンクリーチの壁に、卒業生が贈ったと思われる作品が描かれていました。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」です。コンクリーチの壁がねじ曲がっている、そこに「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」と書いてありましたので、特に辛く思った場所です。そして、帰ってからこの言葉を改めて調べてみました。

雨にも負けず/風にも負けず/・・そういうものに/わたしはなりたい

「そういう者」って誰のことかと思っていましたが、何と、この詩のモデルがいたというのです。当時の花巻では知らない人がいない、大変な有名人であった斉藤宗次郎だと、宗教学者、山折哲雄さんは述べています(2011年1月 NHK「こだわり人物伝」)。

斉藤宗次郎は1877年に岩手県花巻市に生まれました。彼は小学校の教師となり、ふとしたきっかけで内村鑑三の本に出会い、やがて内村鑑三の薫陶を得て、1900年の冬、23歳のときに洗礼を受け、花巻で初めてのキリスト者になりました。宗次郎は「耶蘇」(やそ)と呼ばれ迫害されました。特に彼が日露戦争に反対したことから、教育会から追放され、小学校教師の職を追われます。それだけでなく、長女の愛子ちゃんは耶蘇の子供と呼ばれ、腹をけられ、腹膜炎を起こした数日後、わずか9歳で亡くなっています。

教師を辞めた宗次郎は、新聞配達店を始めます。しかし彼のやり方は変わっていて、新聞を配達する一軒一軒の前で立ち止まり、その家のために祈るのです。祈るだけでなく、地域の人々のために彼は自分を捨てて働きました。やがて、宗次郎を耶蘇と迫害していた地域の人々も、徐々に宗次郎に心を開いていきます。そして、ついに花巻では「名物買うなら花巻おこし、新聞を取るなら斉藤先生」と言われるようにまでなるのです。やがて、宗次郎は内村鑑三の弟子として、東京に行きますが、かつてはキリスト教徒として迫害され、教師の職を追われた宗次郎ですが、何と花巻駅のホームは町長をはじめとする町の有力者、学校の教師など多くの人々で埋め尽くされたということです。新聞配達をするこの宗次郎と知り合ったのが、宮沢賢治で、斉藤宗次郎より20歳も年下でしたが、宋次郎の人柄にひかれていきます。斉藤宗次郎はクリスチャンとしては無名でした。しかし、内村の薫陶を受け、キリストに生涯を捧げた斉藤宗次郎は、はからずも宮沢賢治の詩のモデルとなり、その詩は80年以上たっても語り継がれていくことになりました。

雨にも負けず/風にも負けず/雪にも夏の暑さにも負けぬ/丈夫なからだをもち/慾はなく/決して怒らず/いつも静かに笑っている/一日に玄米四合と/味噌と少しの野菜を食べ/あらゆることを/自分を勘定に入れずに/よく見聞きし分かり/そして忘れず/野原の松の林の陰の/小さな萱ぶきの小屋にいて/東に病気の子供あれば/行って看病してやり/西に疲れた母あれば/行ってその稲の束を負い/南に死にそうな人あれば/行ってこわがらなくてもいいといい/北に喧嘩や訴訟があれば/つまらないからやめろといい/日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/みんなにでくのぼーと呼ばれ/褒められもせず/苦にもされず/そういうものに/わたしはなりたい (原文はカナ表記)

この中に、「南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、」とあります。死を怖がる。でも怖がらなくてもいいと言う。イエス・キリストを知る者の言葉ではないか。
津波に巻き込まれた子どもたちの中に、イエス・キリストはおられたのです。子どもたちを抱きかかえて、「こわがらなくてもいい」と主イエス・キリストこそ、そう言われたのではなかったかと、私は、そのように思いました。
人間にはあらゆる恐れがあります。何を恐れているのだろうか。心の中に、津波を防ぐような堤防を高く築き上げるのでしょうか。そんな安心は、地震によってもろくも崩れ去るのです。心が崩れるのです。そうではない。怖がらなくてもいいと言う。ここにいたらいい、と言う。主イエス・キリストにこそ、私たちの心を載せていたい、と思うのです。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
[PR]
by rev_ushioda | 2013-09-20 16:53 | Comments(0)