「現実に向かって語る言葉」

3年前から、礼拝でマタイによる福音書を読み始め、今日が最後になります。まる3年間かかって、読んできました。3年と言えば、おそらく何でも起こるのです。家族を天に送った人もいました。その反対に、家族が増えた人もいます。洗礼を受けて天に国籍を作った人もいます。病を得た人もいますし、事故や、自然災害に遭った人もいます。2011年には、東日本大震災がありました。原発事故によって、故郷を追われた人も多くいます。教会は、高齢化、引っ越しなどで礼拝者が激減し、仲間は大きなショックを受けています。3年というのは、何でもある(起こる)年数なのです。
その間、この福音書を読み続けたということには、どのような意味があるでしょうか。はっきりした答えがあります。人生のどの場面にも、語る言葉をもっている、ということです。
私が牧師になって初めて葬儀に直面した時、人の死に際しても語る者であった、ということを、うかつにもあまり考えて来なかったことを思い知らされました。普通は「このたびは、・・・」語尾を濁してもいいのだと聞いたことがあります。しかし、葬儀説教では、そうはいきません。はっきり語るのです。何を語るか。お経のような言葉ではありません。遺族と仲間たちに向かって、聖書をもって、慰めと希望を語るのです。聖書は、人の言葉が沈黙する時にも語り続けるものなのだと、牧師になってから、思い知らされたのです。
この3年間、いろいろなことがありました。だからといって、聖書が沈黙した日は一日もなかったのです。その都度、聖書の言葉は語りかけ、慰め、励まし、勇気づけ、立ち上がらせてくれた、と言えるのではないでしょうか。聖書は、人生のどの場面にも語る言葉をもっている、ということを私たちは学び取ることが出来たのです。いままでそうであったように、これからもそうです。聖書は、沈黙しません。この3年間でそのことを経験した私たちは、どうかこれからも一緒に、語り続ける聖書の言葉に聞いて行く、良き仲間であり続けたいと思います。

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by rev_ushioda | 2013-11-15 22:25 | Comments(0)