「ペーパードライバー?(2)」

そろそろ、神と教会、人のために、「キリスト者免許」を使う時が来たのではないでしょうか。
今までは、自分のために聖書を読んできました。心の葛藤を整理する必要もありました。親子の課題、生活の課題もありました。そのような中で教会に導かれ、意を決して洗礼も受けました。転会してこの教会の会員として歩み始めました。こうして今、洗礼の印は、確かに私のために慰めとなり、希望となりました。依然としてまだまだ解決しなければならない課題は、あります。しかし、たぶんそれは、一生の課題なのでしょう。洗礼の恵みは、同じ課題の中にいても、今までと違った視界を開いてくれます。今までと違った取組みの仕方が始まりました。
さて、この辺りで次のステップを踏む時を迎えたのではないでしょうか。一歩踏み出す時はまだ先かと思っていたら、今なのではないでしょうか。「いつやるの? 今でしょう!」この流行語は、なかなか味わい深いです。神学的なテーマがあるからです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と主イエスから言われた人たちは、「すぐに・・従った。」とあります(マタイ4章18節以降、ほか)。後ではありません。今です。いかにつたない歩みであろうが、そこに教会ができたのです。
イエス・キリストに従うということは、自分のためではなかったことに思いを向けましょう。「人間をとる」のです。そのために建てられた教会に仕え、教会の働きに仕えるのです。そのことのために、私たちは洗礼を受け、「キリスト者免許」を持っているのです。そうなると、礼拝に出るのも、自分一人のためではありません。礼拝で私の存在、私の声掛けを必要としている、人のためです。聖書を読むことさえ、人のため、となるのです。人といのちの言葉を語り合うために聖書を読むのです。災害で苦しむ人がおられます。平和を破壊された人がいます。その人のために、今、手にしている「キリスト者免許」は、どう用いられるでしょうか。政治が平和や信仰を脅かしていたとき、主イエスは真正面から向き合いましたが、弟子たち(私たち)はこの世のことにそっぽを向いていてよいのでしょうか。私たちにはどのような「今日の運転」が求められているのでしょうか。

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by rev_ushioda | 2013-11-01 11:56 | Comments(0)