「この教会で葬式をする」

洗礼を受ける時、自分の家はお寺に墓地があるとかいうように、墓地のことを気にされる方が多いのです。たとえそれが自分とは関係のない信仰であったとしても、家も、個人も、墓地に結ばれているのです。それについてはいろいろな考えがあると思いますが、改めて私たちキリスト者の信仰を考える時、葬儀(葬式)とか墓地とかに結ばせて考えることは、意外と大事なことだと思い至ります。
信仰は、その時だけということはあり得ません。信じるということは、生涯、続かせるものです。だからそのために準備の時を十分に取りますし、洗礼を受けても、実を言えば、そこからが求道なのです。そして、終に信仰の道の至るところが死であり、葬儀の営みとなります。当然、葬儀(葬式)もまた、この信仰で行い、特別なこと(転居など)がなければ、洗礼を受けた教会で葬儀を執り行うのです。逆に考えれば、自分の人生の始末をこの信仰、この教会でつける、という覚悟をもって洗礼を受けることになります。そこのところがふらふらしていてはいけない。葬儀を出す覚悟です。おのずと心が引き締まるというものではありませんか。
信仰はどこも同じ、どこでも葬儀は出せる、という考えがあるかもしれません。確かに、転会手続きがありますから、そう言えるのです。しかし、それは結果であって、最初からそのように考えるべきではありません。この教会で葬儀を出す、と覚悟してみてください。自分の葬儀から、今の自分の信仰の歩みを振り返ってみてください。果たして、今の自分がどのように見えてくるでしょうか。週に一度の礼拝とは、そのような覚悟をもって「必死で」(意味は、死を決して、全力を尽くして)まもるものなのです。
自分が自分をうれしく振り返ることができるような、自分をほめてあげることができるような、今日の信仰の歩み、礼拝への道をぜひ、作りたいものです。
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by rev_ushioda | 2013-10-18 10:23 | Comments(0)