「弱さを持つ人」

私の方向音痴は、自慢できるほどの相当なものです。子どもの時、何度も降りたことのある駅でさえ、ある日突然、反対の方向に歩いて行ってしまったとか、結婚式前日、婚約者(妻)を家に送った帰りに道に迷い、走り回ったあげく夜のことで聞く人もなく路上で一夜を明かしたとか、そのような嘘みたいな本当の話ばかりです。
ある日、家庭訪問をした家でそこにあった雑誌をぱらぱらとめくっていたら、「カーナビ」の広告が私の目に飛び込んできました。正直言って、目が点になるとは、あの時のことを言うのかと思うほどでした。今でこそ安価に手に入るものが出回っていますが、まだまだ、かなり高価なものでした。しかし、それにしても、日本全国どこにいても自分の位置がリアルタイムで分かる、というのですから、私は訪問の目的そっちのけで(?)目が吸いつけられて離れられなくなりました。
しかし、そんな話をすると、当時のことです、何を贅沢なことを言っているの。そんなゆとりはないでしょ、と言われるのがオチでした。
私は、しかしこんな話をしながら、弱さを持つとはこういうことなのだとつくづく思うのです。他の人から見ればたわいもない、愚かなことに見えるようなことに「こだわる」のです。弱さがあるからこそ、その愚かさ、そのこだわりから、離れられない。
私たちはひょっとしたら、そういう誰かの弱さ、叫びに対して、「何をバカなこと言ってるの」と、こちら側の基準で見たり、考えたり、時には聞き流して、また、時には批判していないだろうかと思うのです。弱さというのは、痛みや悲しみなどと同じ感情を伴うものですから、人と比較できるような相対的なものではありません。その人にとっては、ある意味では絶対の辛さなのです。
方向音痴くらいだったらまだいいのですが、ときには、弱さが、罪に絡み合うこともあります。しかしその時でさえ、私たちは、人の表面的な言動を見て、ああだこうだと言う人には、なりたくないのです。なってはいけないのです。自分の目の中にある丸太に気づかないまま、人の目にあるおが屑、ちりを取ろうとしてはいけないのです。
主イエスはそういう人と共におられたからこそ、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカによる福音書7章34節)と言われたではありませんか。自分が弱さそのものになって初めて、人は、そこから解放されるのです。

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by rev_ushioda | 2013-09-28 14:33 | Comments(0)