「道を歩くキリスト」

横浜を歩いていると、至る所、道の上で段ボール紙を敷いて寝ている人たちを目にします。歩行者が何人いようが、その視線を一向に気にせず、まったく自分の世界をそこに作っているのです。その様子を見ながら思うのですが、そう言えば、道は、私たちの「生活の場所」だったのだということです。私たちはそこに寝ることはないにしても、誰もそこを通る。社会には地位、階級があっても、道にはそういうものはない。誰からも差別されることはないから、誰もそこにいられる。ですから、どんなに人がいたとしても、そこに“自分の世界"を作ることができるのだろうと思うのです。
聖書を開くと、キリストはその「道」を歩いたと書いてある。どこかに行くのに道を通るのは当たり前ではないかと言っていたのでは、聖書を読んだことにはならないのです。キリストは、道を歩かれる。そして、そこにいる、そこにしかいることができない、一人一人と出会うのです。一人一人の生活の中に入っていかれるのです。「それではだめだ、こっちにおいで」とは言わない。「あなたがそこにしかいられないのだったら、では、その所で、あなたが見つめている世界を一緒に見ようじゃないか」まず、そうおっしゃって、出ていく。そこから始めるのです。それが、キリストが道に出るという意味です。
私たちは、逆に自分の価値観の中に人を引き込もうとしてきたのではないでしょうか。「それではだめだ」「こうするんだ」とか言って。こうして人は反発し、警戒し、またあきらめ、決して本心を言わないようになった。そういう生育歴を持つ多くの子どもたちが、思いを閉じ込めているうちにエネルギーがたまってきて、突発的な暴力になったり、心が病んでしまうのです。
その人がいる同じ場所、同じ道から世界を見る。そういう目、そして感性を、私たちは大事にし、養いたいと思うのです。泉教会は、そういう教会です。あなたがそこから見える世界を一緒に見ながら、一緒に歩いていきたい。キリストがそうなさったように。

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by rev_ushioda | 2013-09-06 22:51 | Comments(0)