「伝道と宣教」
2013年 06月 11日
生きていく場所の危機が現実のものとなったのは、原発事故によってです。今までもそのような事故があったことは聞いていました。しかし、ずいぶん呑気だったことに、ようやく2年前に皆が気づいたのです。福島から故郷を追われて来た人が、その悔しさ、怒りを涙ながらに話すのを聞き、「生きて行く場所」がなくなるという危機感を感じました。
たとえば、元気がない池の鯉を治療して、健康を回復させ、池に戻します。しかし、元気がなかった理由は、池の水が汚れて酸素が不足していたからだとしたら、どうでしょうか。「伝道」によって、一人の人が神を信じるキリスト者として、世に送り出されます。しかし、そこが汚れて酸欠状態であったら、どうなのでしょうか… 放射能で汚染されて住むことができなかったとしたら… 原発は、人間の生きる世界を奪い、いったん事故が起こったら、もともと人間のコントロールが効かないものですから、事と次第では巨大な化け物と変わり、もう、一部の地域の問題ではなくなることをはっきりと示しています。
また、今の憲法を変えようという動きがありますが、新憲法草案では基本的人権がなくなり、国民主権もなくなり、国防軍さえ謳われています。基本的人権が奪われ信仰の自由がなかった時代、私の恩師の父君は、その酸欠の社会で、殉教し、京都のどの教会でも葬式をしてもらえなかったのです。国防軍ができて徴兵制が布かれ、平和が破壊された酸欠状態の世界に、私たちの孫たちを、さあ、元気に行きなさいと、教会は祝福をもって送り出せるでしょうか。
だから、生きていく場所をしっかりと残すことを、「伝道」に対して、「宣教」(説教をはじめ、教会の働きのすべて)と言っておきたいと思います。教会は、「伝道」と「宣教」と、この両方が必要なのです。鯉が元気になること、その鯉が生きる池の水をきれいにすること、この両方が大事なように、です。私たちは、その両方に使命を与えられて、世に送り出されているのです。
ただ、一人一人、賜物や使命が違いますから、何もかも出来ません。しかし、少なくともキリスト教信仰からはこの世のことへの無関心、宣教への無関心は、生まれてこないでしょう。神は、人間に世界を正しく管理するように、言われたのですから。「産めよ、増えよ、地を従わせよ。」(創世記1:28)。