「牧師就任の誓約」

F牧師の引越しの日、何人かで、お手伝いに行きました。玄関前の道路は坂道になっているのですが、そこに止めた車(荷台に囲いがある車)から荷物を下ろし、運びました。その車の荷台に入ったとたん、私は、中で気分が悪くなった。斜めの閉鎖的空間が、体のバランス感覚と、合わなかったようです。なるほど、そこに立って見ないと分からない世界が、感じ方があるのです。就任して初めて見えてくるものがある。パウロがテサロニケの町に行った時、「激しい苦闘」があったのです。そこにいるからこその戦い、苦闘というものがある。平然としてはいられないものがある。そこに、遣わされた者の言葉があるのです。
牧師就任式は、「お披露目」の式ではありません。そこで、就任する牧師と、迎える教会員の双方が、神の前で「誓約」するのです。しなくてもよいというものではないし、就任する牧師を紹介するためのセレモニーでもないのです。就任式では、誓約を、牧師、教会員双方が共にします。そこから歩み出すのです。共に立って、そこから見える世界がある。そこに向けて出発するのです。すると、今まではどうということもなかった世界が、牧師が苦闘しながら語る言葉を聞いているうちに、その風景が変だと思い始めるかもしれない。そういうところが大事。みことばに照らしてみて、見えてくる風景は大事なことです。そのように語る者を迎える。契約する。それが、就任の誓約なのです。
パウロはテサロニケの町に行った(口語訳聖書「入って行った」)時、それは「むだではなかった」と言っています。よい実りがない、そのことが何の実りも生み出さない、むしろ無駄になってしまう、という「入り方」も起こり得るのです。しかしそうではなかった。無駄になってしまわないように誓約して、双方が、自分たちが今、どこに立とうとしているか確認するのです。
牧師が教会に入っていくことが無駄になってしまわないためにまず問われるのは、牧師のあり方であることは言うまでもないことです。牧師は、教会の人々を喜ばせるようなことを語り、教会の人々の顔色を伺うようになってしまうという誘惑の下にあります。しかし「人間の誉れを求めませんでした」と言わなければなりません。このために牧師自身の戦いがあるのは当然です。他方、教会の人々は牧師をどのような者と考え、また何を期待しているか、求めているか。牧師を迎える誓約をするということは、自分が喜ぶことを語ってほしい、という誘惑を放棄することも含んでいます。献身が求められます。牧師を迎えるということは、献身です。今、人に喜ばれる方向を選び取らない、という献身をするのです。この献身の上に、祝福がありますように。

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Commented by aki at 2013-04-13 00:00 x
[自分が喜ぶことを語ってほしい、という誘惑を放棄すること]
を忘れている会話をよく耳にしていました。改めて確認できました。感謝。また、先日は懐かしくお話ができ、嬉しいことでした。教会の兄姉に祝福がありますように。
Commented by rev_ushioda at 2013-04-14 06:46
aki さん。久しぶり。そしてお電話、ありがとうございました。
コンサート、成功しますように!
by rev_ushioda | 2013-04-06 10:34 | Comments(2)