「聖書との対話を」

私たちは常に、「こうでなければならない」という決めつけた考え方、時には、言葉や視線との戦いをしているのだと思います。
聖書の読み方について今、考えているのですが、聖書の読み方は、決めつけないところに、真実と、面白みがあると思うのです。「ここは、このように読むべきだ」と決めつけた瞬間、聖書の多様な読み方が否定され、多様に生きる人々の実存が否定され、画一化した世界を作ってしまうのです。その場は、しらけた空気となるでしょう。はたしてそれが、律法学者たちやファリサイ派の人々が作った社会でした。疲れた者、重荷を負う者(マタイによる福音書11章28節)を生み出してしまったのです。
「こう読んでいいのだ」という場が、用意されなければならないのです。それは違う、と言わない。その解釈が、たとえ違っていたとしても、一人の人のその解釈で教会が倒れるわけではない。そうならないために牧師がいるのです。違っていても、そう読む人の実存が現れるとしたら、それこそ聖書の聖書たるゆえんです。思いっきり、自分の生き方や生活から来る感想、理解の仕方を言ったらよいと思います。聖書を読まなければ、そもそも聖書の言葉への感想など出てこないのです。その感想がどうであれ、感想が出るのは、それだけ聖書を読んでいる、聖書の言葉が、読む者の生き方に何らかの仕方で触れ、対話が生じたのですから、大いに結構なことだと思います。
だから、聖書を共に読む場では、それぞれの読み方が最大限、尊重されなければなりません。そのために、一つ約束があります。「私はこう読む」というように主語をつけることがきわめて大事であると思います。だいたい「正しい」聖書の読み方などあるでしょうか。自分の考えにしても、間違っているかもしれないという、謙虚さが大事です。さらには、人の「間違い」さえ受け止める信仰的度量と寛容が必要です。だから、どの人にしても「私はこう読む」とするのです。聖書との対話によって「私は、こう考えた」とするのです。100人いれば、100通りの、そのような言葉が聞かれるでしょう。(それをじっと聞くのが、教会の聖書を読む会です。)愉快なことだと思います。そのように聖書は人に対話を求め、言葉を引出すことで、まず、その存在を肯定していくのです。肯定された人は、次に、自分から心を開き、聖書に問う人になるでしょう。そこに、人間が生まれる。反対に、人間的決めつけは、ロボットを作る。しかし聖書は、人間を創造する言葉なのです。

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by rev_ushioda | 2013-03-17 06:18 | Comments(0)