「記憶を呼び覚ます」

私の部屋に置いてあるラジカセのアンテナは、くにゃっと曲がっています。「3月11日」テレビの上から床に転落して、壊れはしませんでしたが、アンテナだけ曲がった。そのままにしてあるのです。それを見て、記憶を消さないためです。何の記憶かと言えば、地震とか津波の記憶ではなく、その災害の後ろにある、災害に襲われた人々の茫然自失、家族を亡くした悲しみ、故郷を失った痛み、職を失った不安、原発事故への怒り。被災地から遠く離れた横浜に住んでいて、もし、現地に行かなかったとしたら、もし、関係者がいなかったとしたら、テレビの画面だけの情報だったら、果たして何事もなかったかのようにその後の日を過ごしたかも知れません。曲がったアンテナを見て、鈍感な自分に、人々の記憶を呼び覚ますのです。
また、主イエスはあの時も、今も、どこに立たれているかという記憶も呼び覚まします。飼葉桶に生まれた主イエスは、野にいた羊飼いたちと共に、横暴な支配者の恐怖政治のもとで叫ぶ人々と共に、難民の列と共に、差別偏見の対象とされ周縁化された人々と共に、愛する者の死に直面した人々と共に、罪を犯す人/罪を悔いる人と共に、そして、正義を曲げるさばきを行う王の前に、立っておられました。

私(たち)は、人の痛みにも、主イエスの恵みと憐れみにも、あまりにも鈍感な者なのです。一番いけないのは、すべて「心の問題」にしてしまうことです。信仰は内側から始まるのは確かです。しかし、その結実は、外に現れるのです。キリスト者が「外」のことに関して無関心でいる時、あいまいな態度をとり続けている間に、信仰など関係ないという人々の、被災地に対する行動や、平和に対する行動には、目を見張るものがあります。私たちの祈りの道は、いったい、どこに作られていくのでしょうか。

自分の計画を変更することを「愛」と言うのだ、そう聞いたことがあります。

「礼拝は終わった、そのみのりは/信じるものに/授けられる。心の中にまかれたその種/行動の花を/ひらかせる。神は招き、愛は結び、み国のため/働こう。」讃美歌21 91番

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」ヘブライ人への手紙13章12節

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by rev_ushioda | 2013-03-06 12:48 | Comments(0)