「苦しみの共有ができる人に」

キリスト新聞3月2日号の「論壇」に、木村利人さんが、東日本大震災と東京大空襲を重ねて、書いています。自然災害だろうが人為的な戦争だろうが、そこに人間の深い悲嘆、苦難の耐え難さがある、と。
そう言って、ご自身の体験を書いています。アメリカで出会った人のことです。その人は、木村さんが日本人だと知って近寄ってきて、こう言ったのです。1945年3月10日、自分は少年兵として焼夷弾を満載し、東京上空に到達した飛行機に乗っていた、と。その日とは、100万人以上の一般市民が家を焼かれ、10万人以上が燃える炎の中で逃げ場を失い、命を落とした、東京大空襲でした。そしてこう言った。「上から見た東京の全域には、様々な色の、今まで眺めたこともないようなものすごく大きな花火が地上で舞っているようで、本当に綺麗で美しかったですよ。」得々として語った。多くの人を死なせたことへの遺憾の意の表明も、反省も全くなかったことに唖然とした。まさにその日、多くの人の命が失われたのだ、自分の家も焼かれたのだ、とその人に語る木村さんの顔つきの険しさに、その人は気まずさを覚えてか、すぐにその場を離れて行ったというのです。
他者の苦しみや悲嘆への共感の欠如がある。他者の心への想像力の欠如がある。そういうことが、人間としての平和で豊かな未来への生きる力を失わせるのだ、東日本大震災の被災地に対してもそうだ、と「論壇」は、述べていました。
被災地のあの防災センターを訪れると、外階段の鉄製の手すりは波の力でひん曲り、建物の中は流されて、何もない、廃墟となったその建物の前には祭壇が作られ、たくさんのお花が手向けられていました。しかしそこで、ピースをして写真を撮る若者がいたとか。ましてや、遠く離れた横浜にいる私たちは、現地で苦しみ、悲しみの日々を送っている方々にいったいどれだけ共感できるのだろうかと思います。はたしてペルシャ湾に赴いた自衛隊員の42人が亡くなっていると聞きました。そのうち20人が、自死であると。まったく正反対のようですが、根は一つです。苦しみや悲嘆と確かに向き合い、それを共有できる他者の心への想像力は、いったいどこで養われるのでしょうか。
時は今、受難節。主イエスの十字架の意味に沿い続ける一回一回の礼拝で、私たちは人間らしく生きるため、極めて大切な祈りの作業を重ねているのです。

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by rev_ushioda | 2013-03-03 23:20 | Comments(0)