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「行為の意味」

世界祈祷日礼拝が、昨日(本来は3月第一金曜日)、今年は泉教会を会場に開催された。20人ほどであったが近くのカトリック教会の姉妹も参加してくださって、礼拝ののち、良い交わりをいただくことができた。式文を中心に進める仕方は私たちはあまり慣れていないが、いい刺激になる。あやうく飛ばされそうになった説教であったが、以下、マタイ25・31~46から語った内容を書いておく。


東日本大震災の後、何度もテレビで流れていたCMの一つに次のものがあります。「こころ」は、だれにも見えないけれど、「こころづかい」は見える「思い」は、見えないけれど、「思いやり」はだれにでも見える」
宮澤章二「行為の意味」の一部です。
なるほど、「人が人として生きること」人への思いやりについての在り方を宮澤章二さんは私たちに伝えようとしています。実は、宮澤さんよりもはるか昔に、主イエス・キリストは、「人が人として生きる」ということ、「思いやり」の本質的な意味を、話しておられました。一つのたとえを示して、そのことを語っておられます。


聖書を読みましょう。34節「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
そこで、これを聞いた人は言うのです。「イエスさま、いつ私たちは、あなたを見たでしょうか?」「いつ、あなたにそのようにしたのでしょうか?」 また、そのようにしなかった人たちも、同じことを言います。「イエスさま、いつ私たちは、あなたを見たでしょうか?」「いつ、あなたにそのようにしなかったのでしょうか?」
いつ見たか、見なかったのかというのですが、実は、主イエス・キリストを、見ようとすれば私たちは見ることが出来るのだと、ここに言われています。なぜなら、主イエスは、私たちのそばにおられるからだ、と言われるのです。主イエスは、主イエスが愛した一人ひとりのそばに一緒にいらっしゃるのです。つまり、飢えている人、のどが渇いている人、旅をする人、裸の人、病気の人、牢に入れられた人の傍、です。主イエスは、これらの人々をご自分の「兄弟」と呼びます。また、「最も小さい者」とも呼びました。そして、そのそばに立っておられるのです。
しかし、多くの場合、人は言います。「イエスさま、いつ私たちは、あなたを見なかったというのでしょうか?」見えないという理由は、見捨てられているから、です。彼らは自分の隣人からも無視されているのです。果たして私たちは、何か必要を訴える兄弟姉妹を見ても、見ないふりをする時があります。そういう時は、何らかの自己中心的な理由がじゃまをして、彼らを助けたくない、という気持ちになっているのです。自分を指して、こちらは忙しいのだと言います。また相手を指して、まだ、あなたより悲惨な人はたくさんいる、ぜいたくだ、もっと頑張れ、と思うのです。そして、だから、助けたくないのです。
しかしそういう時に、彼らの涙は、悲しみは、心の叫びは、主イエスによって聞かれているのです。主イエスは彼らの傍に立たれるのです。主イエスは、これらの人々をご自分の「兄弟」と呼びます。また、「最も小さい者」とも呼びました。そして、そのそばに立たれるのです。


どうして私たちは、他の人の困っていることを見なかったのか。それは、私たちが、自分のことだけを見ている、からです。自分の秤で測っているからです。自分のことだけに関心を持っているからです。他者の苦しみや悲嘆への共感が欠如しているからです。感性がさび付いているからです。
キリスト新聞3月2日号の「論壇」に、木村利人さん(恵泉女学園大学 学長)が、東日本大震災と東京大空襲を重ねて、書いています。自然災害だろうが人為的な戦争だろうが、そこに人間の深い悲嘆、苦難の耐え難さがある、と。そこで、ご自身の体験を書いています。アメリカで出会った人のことです。
その人は、木村さんが日本人だと知って、こう言ったのです。1945年3月10日、少年兵として焼夷弾を満載し、東京上空に飛んできた飛行機に乗っていた、と。その日とは、100万人以上の一般市民が家を焼かれ、10万人以上が燃える炎の中で逃げ場を失い、命を落とした、東京大空襲でした。そしてこう言った。「上から見た東京の全域には、様々な色の、今まで眺めたこともないようなものすごく大きな花火が地上で舞っているようで、本当に綺麗で美しかったですよ。」得々として語った。多くの人を死なせたことへの遺憾の意の表明も、反省も全くなかったことに驚いた。まさにその日、多くの人の命が失われたのだ、自分の家も焼かれたのだ、とその人に語る木村さんの顔つきの険しさに、その人は気まずさを覚えてか、すぐにその場を離れて行った、というのです。
他者の苦しみや悲嘆への共感の欠如がある。想像力の欠如がある。そういうことが、人間としての平和で豊かな未来への生きる力を失わせる、東日本大震災に対してもそうだ、と そこで述べていました。

主イエスは、あの時も、今も、あしたも、ずっとこれからも、他者の苦しみや悲嘆を持つその人々のそばにいます。彼らの苦しみの中、飢え渇きの中、恥の中に、主イエスはおられるのです。しかし、人の目には隠されているのです。人の目に、主イエスが見えない、のです。
主イエスが最初に私たちのところに来られた時、誰にとっても、この方だ、と分かるような者として現れたわけではありませんでした。ベツレヘムの宿の人は、部屋が満室だというので、ヨセフとマリアを、普通の旅人として「馬小屋」に案内したのです。その夜、主イエスは馬槽の中に生まれたのです。しかしこうした結果、神の子でありながら主イエスは、住民登録の対象にもならない羊飼いの寂しさの傍にそっと立たれることになったのです。直後に、ヘロデの兵隊が町にやってきて、2歳以下の男の子を皆殺しにしました。その、殺される人たちの混乱と呻きの中に、主イエスはおられたのです。エジプトに難民となった時、主イエスは、そのような暴力の中で苦しみと悲しみを味わうような人々と、共にいました。十字架上で死なれたとき、主イエスは、のどが渇きました。裸でした。神からまったく見捨てられたその時、両脇で、やはり十字架で殺される人がいた、その人の傍に、主イエスはおられたのです。そして、「墓」の中に入れられました。死と絶望の底にある人のところに、くだって行かれたのです。主イエスは、こうして暗闇に住む者の一人になり、最も小さい者の一人になりました。 苦しむ者と共に苦しまれたのです。

私たちは、飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人が見えないでしょうか。そこに、主イエスを見ないでしょうか。

『罪なき者の血を流すなかれ』という本があります(『罪なき者の血を流すなかれ』フィリップ・ハリー著、新地書房)。
第二次大戦中、フランスの、あるひとつの村に、ナチスの迫害を逃れてユダヤ人が逃げてくる。村人は彼らを受け入れて、国外脱出させました。その村の出来事が書かれています。村の名前は、ルシャンボン・シュル・リニョン。1998年の朝日新聞に「20世紀からの伝言 第三部 - 七つの村の記憶」という見出しがつけられた記事がありましたが、この本で紹介されている村のことでした。
そこに逃れてきたユダヤ人は一時ここで受け入れられ、そしてナチスの軍隊が来る前に、村人は、彼らを逃がしていくのです。
本の一番最後のところなのですが、ルシャンボン・シュル・リニョンという村が、周りのル・マゼ、その他の村と共に「コンシストワール・ド・モンタギュー」発音は違っているかもしれませんが、そこに属していたと書かれています。「教区」と、そこでは訳されていましたが、私たちが言う「小会」です。このような緊迫した歴史的状況の中で、小会(長老たち)がひとつの会議を機軸にして、そこで人々は命がけの決断をするわけです。小会の指導のもとに、この村が動いていたのです。
その決定がこの村の家々に伝わって、最初に難民がこの村に来た時、それは牧師館での会話から始まりました。「夜でした。・・・入ってもいいかときくので、『もちろんですとも、さあ、どうぞお入りください』と答えました。雪まみれでした」。
これが、やがてこの村のどの家でもきかれる事になったのです。「もちろんですとも、さあ、どうぞお入りください」。
これは「台所闘争」と呼ばれています。家の台所に迎える、そしてその台所から立ち上がっていく人々の物語なのです。特に身構えるわけではない。そこは台所なのです。しかしそこから物語が始まった。会議の場で何ごとか長老たちが決めて、それで終わるのではなく、それが次に当たり前のように台所に移されていって、「もちろんですとも、さあどうぞお入りください」という言葉、生活になった。
そして、その中心に小会のつとめがあったということなのです。御言葉が宣べ伝えられる、御言葉がこの世の中で生きて働く、ということのまさにその中心に、小会のつとめがあったのです。その会議が主イエスをしっかり見ていたから、家庭の台所でも、人々は主イエスをそこで見たというようなことが起こったのです。これは、本当に大切なことだと、私は思います。
木村利人さんは、他者の苦しみや悲嘆への共感の欠如がある。想像力の欠如がある。そういうことが、人間としての平和で豊かな未来への生きる力を失わせる、と言いますが、あのフランスの一つの町の台所で、他者の苦しみや悲嘆への共感があった。他者の苦しみや悲嘆を想いめぐらす想像力のゆたかさがあった。彼らは、そこに主エスを見たのです。そして行動した。それは台所であった。台所こそ、主イエスをお迎えするような場所になったのです。


カトリックの讃美歌に、このような歌があります。
小さな人々の/一人一人を見守ろう/一人一人の中に キリストはいる/貧しい人が飢えている 貧しい人が渇いている 国を出た人に家がない 寒い冬には着物がない/小さな人々の 一人一人を見守ろう 一人一人の中に キリストはいる/
小さな人々の 一人一人を見守ろう 一人一人の中に キリストはいる/病気の人が苦しみ 牢獄の人はさげすまれ みなしごたちはさみしく 捨てられた人に友がない/小さな人々の 一人一人を見守ろう 一人一人の中に キリストはいる

隣人と共におられる主イエスにお仕えするために、今、私たちはあのフランスの人たちと共に、台所から、生活の場から立ち上がります。
by rev_ushioda | 2013-03-01 15:16 | Comments(0)

横浜で牧会する牧師のブログです。


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