「伝道の情熱」

昨年、永見兄が出版された『わが故郷 宇和』に、同兄が青年時代(まだ洗礼は受けていなかったが)宇和島教会の聖歌隊に属し、讃美歌「山路こえて」をまさにその作詞の現場で歌ったことが記されていました。

改めて、この讃美歌のことを書いておきます。作詞をしたのは西村清雄(にしむら すがお)。1871年(明治4年)松山藩士の長男として誕生しました。旧制中学時代にカトリックの洗礼を受け、のちに大阪基督教会でプロテスタントの信仰を持ちます。松山に帰郷すると、宣教師のコーネリア・ジャドソンが進めていた夜学校の設立に協力して「普通夜学会」を開きます。1892年に「松山夜学会」と改称(後の松山城南高等学校)、21歳で初代校長となり、昼働く勤労青年達の為に学問の門戸を広げました。彼は寄宿生と寝食を共にして苦労を重ねながら、その生涯を教育に捧げました。1962年には松山名誉市民第1号、1964年(昭和39年)没。
この歌は1903年(明治36年)宇和島教会の伝道を応援して松山に帰る途中、まだ鉄道がない頃だったので、ひとり、わらじがけで法華津、島坂峠の道をたどった時、その思いをうたったものです。作者自身の述懐によれば、

「日はすでに西山に傾いていた。山頂には残雪が輝き、梢には松の嵐、谷には渓流のささやきがきこえていた。やがて冬の日は暮れて、木の間を漏れる星あかりで、やっと山路を辿ったが、大洲までなお5里もあるかと思えば心細かった。その時ふとかねて三輪源造君が新作賛美歌を見せてくれたことを心に浮かべ、私の最も好きなゴールデン・ヒルの歌調に合わせて、一句一句作り、一節できれば、歌って見て又次の一節にうつるうち、感興次第に加わり、今までの淋しさもどこかへ去り、夜の山路を楽しみ、『されども主よ、ねぎまつらじ、旅路の終わりの近かれとは』との句が、自然に出て来たのである。」(注:ねぐとは、祈り願うこと。祈ぐ)

宇和島から松山までは道のりは100キロ。地図でみると大洲市はちょうど宇和島と松山の中間にあり、暗くなって大洲まで山道で5里(20キロ)もあるのでは、大洲到着は早くても夜10時とか11時になったことでしょう。

明治時代の信仰の先駆者の伝道への情熱を感じざるを得ず、年頭にあたり、思い至ってこの讃美歌の紹介を書くことにしました。

『讃美歌21』466番

山路こえて ひとりゆけど、/主の手にすがれる 身はやすけし。

松のあらし 谷のながれ、/みつかいの歌も かくやありなん。

峰の雪と こころきよく、/雲なきみ空と むねは澄みぬ。

道けわしく ゆくてとおし、/こころざすかたに いつか着くらん。

されども主よ われいのらじ、/旅路のおわりの ちかかれとは。

日もくれなば 石のまくら、/かりねの夢にも み国しのばん。

ところで曲のほう『GOLDEN HILL』は、1817年出版の『ケンタッキー・ハーモニー』で発表されていて、旋律は19世紀のアメリカ南部で盛んであった歌唱スタイル(シェイプ・ノート方式)をいかにも連想させる、と書かれたものがありました。
私たちの教会、カンバーランド長老教会はアメリカ南部、ケンタッキー/テネシー州辺り(当時はカンバーランド・カントリーと言われていた)で、1810年に生まれているから、この曲はカンバーランドの人たちがまさに親しんだ曲想をもっているようです。なるほど、一気に親しみが湧くではありませんか。
さらに、はからずも西村清雄がプロテスタントの信仰を持ったという大阪基督教会は、カンバーランド長老教会の宣教師ゴードンが洗礼を授けた信徒たちによって設立された教会です。こうしてみると、「山路こえて」は、カンバーランド長老教会を確実に背後に感じる曲なのです。

写真上:法華津峠。こうしてみると美しい景色だが、日が傾き、なお5里もある一人旅は、いかに心細かったか。伝道への情熱を持ってここを通ったのだ。
写真下:テネシー州立公園内にあるカンバーランド長老教会発祥の地に付けられたテネシー州の歴史的遺産標示。1810年当時は、やはり伝道の情熱燃えるリバイバルの時代であった。

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by rev_ushioda | 2013-01-03 22:36 | Comments(0)