「礼拝をささげる/まもる」

あるとき、「礼拝を受ける」という言葉を聞いたとき、これはいけないと思いました。日本的な習慣は、神社でしたら宮司(ぐうじ)から祈祷してもらう、お祓いしてもらう、お寺に行けばお経をあげてもらうというように、「してもらう」つまり「受ける」という意識が根付いているので、特に高齢の皆さんは「礼拝を受ける」という言葉が出てくるのは、考えてみれば、もっともな話です。
しかし、そうではないのですね、正しい言い方を考えましょう。礼拝は何をするものかと考えると、まず、礼拝は「ささげる」となります。賛美をささげ、祈りをささげ、献金もささげます。礼拝は「ささげる」ものなのです。
しかし、説教は「聞く」のではないか、受けることではないかと言うかも知れません。しかし、聞く耳をささげなければ、積極的に聞かなければ、正しく聞くことはできず、ただ受けているだけでは同じ言葉でも的をはずして自分勝手に聞くことになります。さらに大事なのは、礼拝に行くのは1週間そのつもりで準備しなければ礼拝に行かれませんから、礼拝のために1週間をささげているのです。私たちの命も、時間も、日々の営みも、みな礼拝にささげているのです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12章1節)
また、礼拝は「まもる」と言います。守る(護る)ものです。まもるのですから、好きな時に行くものではありません。泉教会では礼拝の時間を朝10時30分(どうしても出ることが出来ない人のために夜7時)としてあります。好きな時間に自分の都合で行くものではない、という意味です。なぜかは、考えてみればよく分かることではないでしょうか。たとえは悪いですが、皇居の園遊会というのがあります。招待されたら、何が何でも都合を合わせて出かけるとすれば、私たちは御子を飼葉桶に、そして十字架に送った主である神さまから、毎週毎週、招待されているのではありませんか。これをどうしてまもろうかと、考えるのです。「聖別する」という言い方を知っている方もいるでしょう。主のために他の時間とは違って「選び」「分ける(別ける)」のです。この世のことを見たらキリがありません。いくらでも時間が必要です。そういう中から、礼拝がなくならないように時間を確保し「まもる」のです。今年もアドベントの時を迎えました。礼拝をまもり、ささげることを大事に考えていきましょう。

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by rev_ushioda | 2012-12-02 11:54 | Comments(0)