「要領が悪くても」

世の中どうも、大きいもの、力のあるもの、要領のいいもの、速いもの、そういうものばかりが得するように動いているようです。そうでないものは置いて行かれるような、寂しい気持ちにさせられてしまいます。そんなことでいいのかなあ、なんて考えていると、もう世の中、先に進んでいて、家電のお店なんかに行くと、見たこともないものがあって「何、これ」から始まるのです。
ところが聖書では、たとえば羊100匹の内1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しても、迷い出た1匹を捜しに行くのです。キリストは、迷い出た、要領の悪い、歩みの遅いその一人のために来られたのだと言う。大きいもの、力のあるもの、要領がいいものなどとは無縁に、キリスト教は、小さな一人と共に生きることを大事にしてきたのです。
私が以前いた教会に、役員をつとめた女性がいらっしゃいました。この方が亡くなってからご主人が話してくれたことによると、実はこの方は小学校3年までしか出ていませんでした。字が読めない。教会に行っても、聖書が読めない。それで、ずいぶん努力して勉強を始めたのだそうです。しかし教会の役員になったときは、さすがにご主人、叱りつけたというのです。「字も読めないお前に何ができるか(断りなさい)」と。
その通りです。字が読めないなら役に立たない。これが世の中の常識かも知れません。しかし、キリストの常識ではありませんでした。キリストはまったく違う価値を計られます。彼女は、こうして教会で見事に用いられたのです。何よりも、字が書けないことを一番よく知っているのは彼女自身でした。にもかかわらず、彼女は「私でもお役に立つなら」と、身を乗り出したのです。
教会は、決して何かできるかどうかとか、要領のよさとか、そのようなこの世の基準に支配されないところなのです。

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by rev_ushioda | 2012-09-29 10:11 | Comments(0)