「だいたいの見当はつく」

パソコンを新しくした。今までのものが相当、動きがおかしくなってきたので、遅くならないうちにと、早めに手当てしたわけだが、何という動きの軽快なことか。

ところで、まだ操作がよく分からないまま使っているが、ワードは、どうしてこれほど操作が分かりにくくなってしまったのか。土曜日になるというのに、操作が分からずあせるばかり。今まで使っていた「道具」がいったいどこにあるのか、分からない。甘く見すぎていたようだ。週報が出来ないでは困るので、ついに断念。古いほうを持ち出して来て、とりあえず間に合わせた。
今日、近くにいる姪に来てもらって1時間ばかりの講習を受けた。彼女は、パソコンの勉強をしてきたので教えてもらうことにしたわけだが、なるほど、なるほど。聞いてみれば、いたって簡単に、今まで使っていた「道具」が取り出せた。

さて、聞けば、姪はまだ古いワードを使っていて、新しいものは使っていないと言う。私は驚いて、どうして使ったことがないのに分かるのかと訊いた。すると、新しいものを持っていなくても、だいたいの見当がつく、と言うのだ。そういうものか、と思った。一度、勉強しておくと、新しい環境に入っても、だいたい見当がつく。そうだった… と思った。

私たちは、礼拝をまもり、礼拝から新しい生活に進んでいくわけだが、日常のことは日々新しい課題で、途方に暮れるようなことばかりなのだ。しかしそれでも、礼拝を守っている人には、だいたいの見当がつく。それで道に迷うことはないのだ。
しかし、パソコンと向き合うのとは決定的にちがうことがある。私たちが人生の課題と向き合うときの「見当」の後ろには、私たちの経験ではなく、聖霊の導きがある、ということである。聖霊が、礼拝で読み続けている聖書の言葉を思い起こさせ、だからこそ、出会ったことのないような課題にも、「見当」をつけさせてくれるのだ。聖霊に導かれ、キリスト者がつける見当は、この世の中に埋もれている信仰の道を、再び、発見させるものであるに違いない。

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by rev_ushioda | 2012-06-25 21:55 | Comments(0)