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「震災1年の祈り」

1.
あの震災から1年目の日を迎えました。私たちは、この1年をどう過ごしてきたでしょうか。
衝撃的だったひと言があります。「<死も来た>半島」。核燃サイクル基地を持つ青森県六ヶ所村のある「下北半島」をもじって言う言葉です(『原発とキリスト教』14ページ以降)。企業は大きなお金を過疎地に落とし、引き換えに迷惑施設を受け入れてもらう。しかし、一度、そういうお金を受け取った過疎地にある自治体は、もう元には戻れない枷をはめられる。「死も来た」と言いながら、死と向き合わざるを得ないのです。そして、そういう過疎地から送られてくる電気を、都会が、都会に生きる私たちが、消費しているのです。私たちが使う電気は、過疎地に生きる人々の命の犠牲によって送られてきたものだったのです。そういうことを今まで何も考えずに来たことに愕然としたのです。果たして今回、原発周辺の多くの人々が自分の住みなれた町を追われているのです。私たちが電気を使うために、彼らは故郷を追われる。「死も来た」と言う。キリスト者として、こういう事実を見過ごしにしてきたことが大いに悔やまれます。
また、津波は自然災害といわれますが、結局、その危険性を知らせなかった人々、組織による人災である、という見方もあります。「地震の発生とツナミの高い蓋然性について・・・認識しながら、自国の観光業を壊滅させないために、わざと警報を発しなかった」(『ツナミの小形而上学』46ページ)。これはタイの話ですが、日本でも同じであったといえます。原発事故は、政府と原発関連企業がいろいろな思惑で作り上げた安全神話で「わざと警報を発しなかった」結果、日本全体にもたらした「災害」だったのです。
余りにも知らなかったことが、顕わになったのです。そして、これだけ大事なことにキリスト者として余りに無頓着であったことを恥じます。私は、まずは一市民として「9条の会」に加わり、駅前で少しづつですが原発反対のチラシを配っています。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」(マタイ4・16) 都会の私たちが「光」を享受している間に、「闇」が生まれていたのです。私たちは今、何をすべきでしょうか。

2.
震災1年を迎えた日曜日はまさにその日でしたが、中会では祈りのプログラムがもちました。礼拝のあと、それぞれの関係者が、この1年間の活動を報告、その後、近くの2~3人で祈りました。このために200人くらい集まったでしょうか。
その前日でしたが、泉区でも、区内の全教会とYMCAの皆さんが一堂に会して、礼拝と、祈りの会がもたれました。そこには30人が参加しましたが、参加できなかった多くの方も、それぞれの場で祈りをされたであろうと思います。この世の痛みにどう向き合うかは、信仰に生きる者の中心的なことと言って良いと思います。そこから、このような祈りの集会が生まれたのです。
時間的、体力的な賜物を持つ人は、この1年間、奉仕の手を必要としている人々のところに、そして悲しみや痛みに寄り添うため、ボランティアに出かけました。
さらに、今回の災害では原発事故が誘引され、様々な問題が露呈されたのですが、それを放置してきたキリスト者の悔い改めが生まれて、たとえば原発再稼動反対などの行動をする人も出てきました。私も駅前で40分ほどですがチラシを配布しましたが、聖クリストファー教会の姉妹もおられました。これらはすべて、地を治めるように主から命じられた責任を果たす、きわめて信仰的な事柄だからです。キリスト者の祈りなのです。3.11以降、そういう関心なくしてキリスト者であるということが出来なくなったのです。一人の人を救うため、あのゲラサの地にイエス・キリストは上陸されましたが、弟子たちはどうしたのか、聖書には書かれていません。おそらく、舟を降りることができなかったのではないか、従いきれなかったのではないかとも想像します。主イエスは今も、主のなさることに関心を持つように、私たちキリスト者を引き出すのです。私たちが自分の問題の中だけで信仰を完結させてしまっているからです。

「モーセは・・・言った。『同胞が戦いに出ようとするのに、あなたたちは、ここにとどまるつもりなのか。なぜ、・・・人々の心を挫くのか』」(民数記32章1~7節)。

3.
K先生のブログに本の紹介があります。
キリスト者として“原発”をどう考えるか

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Commented by ミリアム at 2012-03-16 11:04 x
震災一年を機に、TVでは夥しいドキュメンタリーが放映されました。

私が見たNHKスペシャルは、ご主人さまがまさに命がけで助けた
奥さまを、その後自死という形で失くされたという内容から
始まりました。

私は喉に鉛がつまったような息苦しさを今も抱えています。
「自分の問題の中だけで信仰を完結させないために」
私のするべきことは何でしょうか。

日々自問しています。
Commented by rev_ushioda at 2012-03-17 09:17
客観的に論評しないこと、またその誘惑から解放されることが、もっとも当事者のためになるのでしょうね。
by rev_ushioda | 2012-03-14 13:10 | Comments(2)

横浜で牧会する牧師のブログです。


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