「会議も礼拝」

「会議はすべて、祈りをもって始め、祈りをもって閉じる」と、『カンバーランド長老教会 教会憲法』(3.05)に書かれています。
一般の会議に参加する機会はしばしばあるのですが、ある意味で「変な」感じを受けるのは、そこに、祈りがないことです。いえ、彼らからすると、祈りがあることに違和感を覚えることでしょう。なぜ、祈ってから会議をするのでしょうか。
それは、キリスト者、教会にとって、会議も「礼拝」だからです。会議は何かを決めるために複数の人が集まって話し合うことですが、キリスト者にとっては、ただ知恵を出してよい結果を得るための場が、会議なのではありません。会議は、話し合うというかたちをとった、神礼拝なのです。礼拝とは「行動と態度を通して神に向けられた賛美、崇拝、感謝、嘆願の儀式」(『キリスト教神学用語辞典』)であるとすれば、会議はまさにその行動と態度を通して神を賛美、崇拝する、つまり、神の栄光を求める行為なのです。
ある教会の役員会で、土曜日ですが、湯のみ茶碗が飛ぶかというほどの議論を交わした。翌日、日曜日ですが、激しく意見が対立したその人は、さすがに今日は来ないだろうと思っていたが、何と礼拝堂の最前列に座り、献金のお祈りをきちんとされたというのです(辻宣道著『教会生活の処方箋』)。こうして、議論しても礼拝を優先する人、会議での理屈や感情の動きはあったとしても、主日礼拝をおろそかにしない人の姿を紹介するのです。会議は、神を礼拝するためにあります。もっと言えば、自分ひとりが礼拝するのではなく、教会がふさわしく神を礼拝する共同体になるために、会議を行なうのです。当然、それを話し合う会議そのものも、礼拝、神の栄光を求めるものなのです。
中会会議が開催されますが、中会会議は、14の教会から代議員である牧師、長老が集まり、議案を審議し、大事な決定をします。すべて神の栄光のため、話し合いの最初も、最中も、最後も、会議の形をとったよい礼拝となりますように。

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by rev_ushioda | 2011-11-18 22:22 | Comments(0)