「出発の仕方」

あるとき、事情があって教会に2週間ほどお泊りになった親子連れがいました。そのお母さんは仕事を探していて、ある夕方、これから人と会って来ると言って出かけました。こんな時間に? と思いましたが、案の定、それはどうやら風俗関係の仕事の面接だったのです。この方の場合、軽い知的障害があってそれで離婚され、教会に一時的に転がり込むことにもなっていたのです。社会生活に適応する力が不足していたので、この時も自分がしようとすることがどういうことかは、分かっていない様子でした。だから説明もできなかった。ところが、不採用だったのです。どうして? と聞き返しますと、何か宗教を持ってるかと聞かれたので、とっさに泊まっている教会を思い出して、クリスチャンでもないのに「キリスト教です」と答えた。すると相手から、「じゃあ、あなたには無理だ。できないよ」と言われたというのです。
私は、この人が自分で判断する力がないまま、その仕事に就かなかったことを本当によかったと思いました。そして、教会から出かけて行って本当に良かった、とも思ったのです。
出かけて行って何でもできるなら、それにこしたことはありません。しかし、「それはできない」と、道を閉ざされる出発の仕方だって、大事なのではないでしょうか。何でもしよう、と思った瞬間、心にきちんとブレーキがかかるような出発の仕方があるのだと思います。パウロという人は、自分は「イエスの焼き印」を身に受けていると言いました。自分はイエスの命に生かされている、恵みに捕まえられている、という意味です。イエスの命に生かされ、恵みに捕まえられている人、「イエスの焼き印」を身に受けている人は、できないことがあるのです。しかし、これは不自由なことなのでしょうか。決してそうではないのです。
私たちは、いったいどこから出発しているのか考えたいのです。そして願わくは1週間ごと、初めにご紹介した女性のように、教会という、祈りの場所から出発してみていただきたいのです。もう一つのドラマがきっと生まれます。

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by rev_ushioda | 2011-10-04 09:59 | Comments(0)