「聴く」

牧師を30年以上していて何度、「最近、説教が変わりましたね」と言われたことかと思います。牧師も色々勉強をしますから、確かに変わらないことはないのですが、しかし、「説教が変わりましたね」と言われるタイミングが、自分が動いた時と明らかに違うのです。
そういう「評価」を聞いて、私は、思い出したことがあります。ある時「パウロの伝道」という講座を開いたことがありましたが、その講座のあと、一人の方が「聖書の文字が大きくなりました!」と目を輝かせて言われたのです。今まで、ぼーと、と言っては失礼ですが、自分なりの基準で聞いていた聖書の言葉が、その講座によって自分の中に受け皿ができて、聖書そのものが言っていることとして聞けるようになった時、文字が大きくなったのです。自分の受け止め方が変わった瞬間、文字が大きくなったのです。
聞き方が変わる、ということがあるのです。今まで何度も聞いたのに、ある日、初めて聞いたように思えることはないでしょうか。つまり、それまでは上の空で聞いていた、ということはないでしょうか。まさか聖書や説教を上の空で聞くことはないにしても、自分とのひっかかりが得られず、ついに聞くことができずにいるということがあるのです。しかし、聞くための器ができると、たとえば自分が苦しんでいるときとか、その時に、語られていることがしっかりと受け止められるようになるのです。同じ聖書の言葉でも、今までは何も響かなかったのに、次に読んだときには大きく響いてくることがあるのです。説教が変わったのではなく、聞き方が変わった、・・・のではないでしょうか。
同じ「聞く」でも、「聴く」という字を使うことがあります。これは、「聴診器」「傾聴」のように使います。自分の先入観、思い込み、価値観を一旦なくして、向き合う対象からそのままに聞くときに使う字です。そのように、私(こちら)が自分を前面に出すのをやめて、語られた言葉の行間を読もうとするほどに聞き取ろう、・・・そうです「聴く」ことができたら、同じ説教は、変わるのです。

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Commented by ミリアム at 2011-09-10 11:05 x
私は教会の聖書会で、聖書の行間が耕されたように思います。
「自分とのひっかかり」が得られたときに
初めて自分に引き寄せて読めるのでしょう。

必死に聖書のページを繰り、御言葉に救いを求める時、
耕された行間から励ましと慰めを
いただくことができます。

こんな私でも、わずかずつでも読み方(聴き方)が変わり
器が形作られているのでしょうか・・・。
Commented by rev_ushioda at 2011-09-10 21:23
同じ聖書会にいても、聴こうとするかしないかで結果は違ってきますが、ミリアムさんには自分と聖書への「問い」がありますから、その場合には確実に、聖書の生き生きとした物語を容れる「器」が整えられている、と言ってよいでしょう。楽しみです。
by rev_ushioda | 2011-09-09 17:49 | Comments(2)