「街道を歩く」

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入るものが多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(聖書)

地図を見ると、いくつかの「直線」が引かれています。新幹線、在来線、高速道路、そして国道だ。そういう「直線」が延びているのがわかるでしょう。出来るだけ早く、目的地に行かれるようにすると、直線になるのです。
その陰に隠れて、旧街道が国道を入ったり出たりしています。
いや、もともとは、そういう街道しか、なかったのです。人が歩く道は、山を避け、谷を避け、くねくねと延びていましたが、しかしトンネルを掘り、橋を架け、まっすぐな国道が出来、高速道路となりました。鉄道もどんどん直線化して、新幹線になりました。
今、私は年に1、2度、旧東海道を歩いているのですが、最初の道を見付けるのに、苦労する所が多いです。歴史、人の動きは、「真直ぐ」な方に動く。少しでも速い方に、動いてきたのです。そして、最初の道は、忘れ去られます。廃道になります。くねくね曲がったもの、遅い道(もの)は、忘れ去られていくのです。
しかし、旧東海道を歩きながら発見するのは、そこに生きた何千、何万人の人々であり、そこに生み出された何百年の歴史です。直線と、速さの中では、決して見ることのない、生活の営みが、見えてくるのです。
旅でお世話になっている『歩いて見て楽しむ 平成東海道五十三次』の最後に、著者は、次のように書いています。

「東海道が敷設されて400年。人は文明を発展させ、便利な世の中にすることで多くのものを手に入れた。しかし、私はこの旅を終えて気がついた。多くのものを得るということは、同時に多くのものを失うということではあるまいか。旧東海道を歩いていると、実に多くのものが目に飛び込んでくる。古い家並み、一里塚、道端の石仏、道祖神。しかし新幹線に乗る、または自動車で走りすぎると、これらのものは一切視界の外である。さらには、これらの鉄道を通す、自動車用の道路を敷くのは、これら多くのものを押し潰すことによってしか、なしえないのだ。新たなものを得るために、人は便利さを追及した。しかしこれは、多くのものを失った上に成り立っているのである。・・・私たちは、この便利さによって多くのものを得たとき、同時に多くのものを失っているかも知れない・・・」

多くのものを得るために、人間は、まっすぐな道を建設し、「広い門」「広々とした道」を作ってきた。しかし、その結果が、たとえば、原子力発電所ではなかったでしょうか。原発事故という人災につながったのではなかったでしょうか。原発もまた「広々とした道」ではなかったかと思うのです。原発は、便利だ、安全だと言われてきました。しかし、一旦、事故が起きれば、人間のコントロールが効かないところで100年単位で、勝手に放射能を出し続けるのです。止められない。放射能で、町に人が住めなくなる。いくつもの町が無人化する。・・・便利さを追求するあまり、こうした「広々とした道」は、人間の生活を奪い、命を脅かすものだと、ようやく気づいたのです。
「新たなものを得るために、人は便利さを追及した。しかしこれは、多くのものを失った上に成り立っている。」 街道を歩くというのは、色々なことに気づきますが、結構、「哲学的」なことなのです。

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by rev_ushioda | 2011-08-24 10:29 | Comments(0)