「雀の母さん」

テレビCMに金子みすずの詩が流れました。
子供が/子雀/つかまへた。その子の/かあさん/笑ってた。雀のかあさん/それみてた。お屋根で/鳴かずに/それ見てた。
前半には、私たちが目にする日常的な光景がうたわれています。ほほえましさを感じます。しかし、後半に移って雀のお母さんの視線が入ってきた時、その日常的な風景が一変します。雀のお母さんは、人間の手にある我が子を、かたずを飲んで見ている。たとえ子どもが子雀をかわいがっていたとしても、お母さん雀は自分の手に届かないところにいる我が子を、心配そうに見守っているのです。その視線を感じているか、いないかで、私たちの生活の意味が、生活の仕方が変わってくる。私は、この詩をそのように読みました。(CMは、おそらく間違った理解の仕方をしていると、私は思います)
自分たちがいつも見ている視線ではなく、そこに飛び込んでくる第三者の視線でモノを見るということは大事なのではないでしょうか。自分たちが普通に、まったく問題なく営んでいると思っている生活であり、これからも順調に進むと見えた光景も、そこに飛び込んでくる第三者の視線で見て初めて、ああ、そういうことだったのかと本当の意味がわかるのです。
キリストの出来事、またその言葉は、まさに私たちの生活に飛び込んできた出来事であり、言葉であり、視線でした。順調に、うまく人生を作ろうとしていた私たちのそばに、キリストの言葉、その生き方、そして人々との出会いが、置かれたのです。弟子たちを見ると、彼らなりにうまく作ろうとしていた人生があった。しかし、それがキリストとの出会いでひっくり返されていくのです。一度ひっくり返されて、そしてここが大事なのですが、確かなものになっていく。意味を持っていく。私たちは、他の視線を何も感じないで、何もひっくり返されないで、自分なりの人生や考え方をさらに固くしようとしているのではなかったでしょうか。そういう私たちに注がれるキリストの視線に、今、気付きたいと思います。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-07-17 16:39 | Comments(0)