「祝福(祝祷)」

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように、今、そして明日も。」
礼拝の終わるとき、派遣の言葉と共に祈る、祝福(祝祷)です。皆さんは気づかれているでしょうか。私は、多くの教会で祈られている祝福とは、少しだけ違う言い方をしているのです。「明日」という言葉を使っています。
ある人が、明日が手術という人のお見舞いに、病院に行ったのです。しかし、翌日、その人は帰らぬ人になってしまった。お見舞いに行ったその人は、神学生、まだ牧師の卵でした。見舞った人が亡くなってしまったために、「自分は何もできなかった。何の慰めも語れなかった」と落ち込みました。しかしその時に、先輩の牧師がその人に言ったそうです。「君は別れる時、何と言ったのか」「では、また明日会いましょう、と言いました」「それなら、君は“永遠の明日”を指し示したのだ。君が普通の人として“明日”と言ったのなら、それは単なる挨拶に過ぎなかった。しかし君は信仰者として病人のところに行ったはずだ。だったら、“また明日”と言ったその明日は、亡くなった人にとって、永遠の明日になっている」。
同じ言葉でも、相手にとっては「永遠の明日」を指し示す言葉になる、というのです。
私たちは、つたない言葉しか知りません。いえ、その言葉さえ、かえって人を傷つけることもしばしばです。しかし、そのような無力を感じるしかない中にあっても、私たちは人間として心を高く上げることができるのです。言葉に、「意味」を感じたときです。特に、「明日」に対して、永遠という意味を発見したとき、私たちは人間らしく、心を高く上げられるのです。
礼拝の終わりの言葉、祈りの言葉こそ、「永遠の明日」を指し示す言葉なのです。今日が、最後の礼拝になるかも知れない。しかし、そこで「永遠の明日」を仰ぎ見れるように、私は、皆さんの上に祝福を祈ります。

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Commented by toms at 2017-05-15 19:42 x
最近のプロテスタント教会の祝祷に疑問を抱いている信徒です。
以下の質問についての回答を信徒・牧師にお願いします。

祝祷について
最近の牧師は殆どの人が祝祷の最後にあなた方一同の上にと祈ります。
私たち一同の上にと祈る牧師は極めて少ないです。
どうして私たち一同の上にと祈らないのですか?
人間(牧師)が人間たち(信徒達)に神の祝福を祈るのに、
どうしてあなた方と祈れるのですか?
自分(牧師)は別格で祝福は必要ないのですか?
それとも祈る時は牧師は神様になるのですか?
万人祭司はプロテスタントの要綱から無くなったのですか?


参考(どこかの牧師信徒?)
Ⅱコリント13:13のみ言葉は手紙の中の言葉ですから、差出人のパウロは受取人のコリント教会の人々が祝福されるようにと「あなた方一同」と祈るのは当然です。
これに対して、礼拝における祝祷は祈る牧師もその会衆の一員として祝福を受ける立場にありますので、「私たち一同の上に」と祈ります。

Commented by rev_ushioda at 2017-07-11 17:21
最近、ブログへの書き込みをしていないため、コメントがあったことにも気づきませんでした。ブログという性格上、ご容赦ください。

さて、ご質問をいただいた件ですが、私の記事の文脈から、今日を最後に私が会うことがないかもしれない方々に対する牧師としての立場で祈るので、つまり、「あなたがた」となります。言い換えると、招聘によって招いてくださった教会に向き合うので、「あなたがた」となる、というのが私の考え方です。

さらに言いますと、その教会がどのような歴史的背景をもっているかで、祝祷のとらえ方が違います。私たちの教会は長老主義改革派の伝統を持っていますので、その意味から言うと、祝祷は、集められた群れが再びこの世に派遣されるに際しての「祝福の宣言」です。説教が福音の宣言であるように、祝祷は、祈りの形をとった霊的祝福の宣言だという考え方です。聖霊が祝福を与えてくださっている事実を宣言するのです。これが私が「あなたがた」と言う根拠です。
質問してくださった方はおそらく祝福の考え方の一つ、ローマカトリック教会の祭司的祝福をお考えになっているかと思います。その場合、「あなたがた」になります。確かに祭司的祝福という考え方もありますが、私自身は上に述べたように、その立場で「あなたがた」と言っているわけではありません。
質問者のお立場は、祝福の考え方の三つ目、「祝福を願う祈り」という考え方に立っておられると思います。そういう考え方もあるのです。

そのどれをとるかは、それぞれに神学的背景があるので、牧師や教会が自分たちの教会の歴史を振り返って、良く学び、教会としての意味づけをされればよいのではないと思います。


by rev_ushioda | 2011-06-11 18:56 | Comments(2)