「召命」

ある時、「牧師は楽しいですか?」と訊かれたことがあります。勢い「楽しいです」と答えましたが、よく考えてみると、気負う答えであったと思いました。「楽しくない」というのも違います。そもそも、楽しい、楽しくないという基準にあてはめて判断できるのだろうか。それは、人のはかり方であり、人の基準なのです。そういう基準で、牧師の仕事をはかることができるのだろうか、そう、思ったのです。
仕事が楽しい。それは結構な話だと思います。では、楽しくなくなったら、どうなのでしょうか。
 楽しいとか楽しくないとかいうのは、感情を基準にした「はかり方」です。そういうところに仕事の基準を置いてよいのか、ということです。
ルターは、1533年に旧約外典『シラ書』11章21節で、「労働」という言葉をberuff(現代表記beruf)を使って表しましたが、この翻訳以前、実はこの言葉は、「聖職への召し/召命」を意味する場合にのみ用いられていたのです。それまで、一般の労働には、「使命としての職業/召命」という意味はありませんでしたが、この後、職業は「使命としての職業 beruf」という意味をもつようになり、現在にいたっていると言われています。
仕事だけでなく、日常起こってくる事柄をどのように考えるかは、大事なところです。楽しいか、楽しくないかで判断していたら、それ以上にはなりません。神に召されている、つまり、使命がある、そのようにとらえてみると、たとえ楽しくなくなっても、そこに使命があるということになります。
さて、「牧師は楽しいですか」の答えは、楽しくもあり、そう言えなくもあり、でしょうか。しかし、召しを感じ、中会からの按手を受けて出発したのです。「酒ぶねの中で小麦を打つ」(士師記6章11節)ような者を、神は召されました。その後33年、誠実をかけて「我、ここに立つ」であります。
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写真は、1978年3月、日本基督神学校卒業式、東京都東久留米市 (以前もこの写真を掲載したかと思うが・・・何を笑わせているのだろう。忘れかけていたが、録音テープが、見つかった。それはいずれまた。)

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by rev_ushioda | 2011-06-01 11:55 | Comments(0)