「聖書は講談で語り始める」
2011年 05月 22日
それはともかく、今回は講談師が語る聖書物語という、ユニークな内容でありました。牧師でありながら講談師であるという人が語りだす、その話に引き込まれました。
「左利きのエフド」(士師記3章)という話がありました。聖書では見開きの半ページほどの記述ですが、これを講談とするのです。もちろん脚色するわけですが、なぜ左利きかというあたりの説明がつけられていました。ある注解を読んだとき、「右手に、何かあったのかも知れない」と書かれてあった。そうだと思い至ったところから話は発展するわけです。聖書を読み込んで、講談とする。そこは、やはり牧師です。右手に何か不都合がある。だから、それでダメだと思うのではなく、それが神によって用いられることにもなるのだというあたりの裏話まで、それも講談で聞かせていただいたのでした。
開会礼拝のときも、パウロは再三、行こうとしていた先が閉ざされ、ついにトロアスに立ったとき、そこでこそ聞いた叫びによって伝道の新たな展開が起こった。そして閉ざされたことにも意味があったのだ、という話と重なり、私たちの宣教の閉じた目を開かせる女性のつどいでした。
聖書の言葉は説教によっても語られますが、講談によっても語られ、そして、今度は皆さんが聖書を読むときに、皆さんによっても語り始められることを期待します。(牧会のはなし より)
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