「主の涙」

「東日本大震災」の被害の大きさには目を覆い、言葉を失います。ともかく、被災者に一時も早い救援の手が差し伸べられることを祈りつつ。
15日の「天声人語」に国文学者の歌人、窪田空穂(うつぼ)が関東大震災の直後、残した歌が紹介されていた。「妻も子も死ねり死ねりとひとりごち火を吐く橋板踏みて男ゆく」「梁の下になれる娘の火中(ほなか)より助け呼ぶこゑを後(のち)も聞く親」。そして、88年前に被害を甚大にしたのは燃えさかる「火」だった。今回は津波による「水」である、と続きます。
ところで同じ日の新聞に、東京都の石原慎太郎知事が、今回の大震災について“天罰”という言葉を使い、「津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と言った記事があった。憤りを覚える発言ですが、しかし、うかうかすると「キリスト教界」の中にも、神の審判を口にする人が出てくるのはどうしたことか。韓国のチョ・ヨンギ牧師が、これは偶像礼拝をする日本への神の警告だと言って、物議をかもしている。そうでなくても、愛の神なのに…という話題になってしまうのに、歯痒さを覚えます。
そういう議論は決まって、濁流に飲まれる人々を、安全な丘の上に立って見ている時に起こってくる議論、評論なのです。主イエス・キリストがすでにその火の中、濁流の中、悲しむ嘆く人々の中に立っておられる時、これは裁きであろうか、神の愛はどこにあるのかと言うならば、私たちは、いったいどこに立っているのかを考えてみなければなりません。「憐れみ深い人々は、幸いである」と聖書に書いてあります。これが私たちの話題にすべきすべてであるはずです(ちょうど大震災直後の説教個所が、まさにその個所でした)。しかし私たちは、目前の苦しみを受け止め、どうしたら援助ができるかを語ることができないで、神学の分野でも考え方がいくつもある、答えが出ない領域の話にすっと入り込んでしまうのです。
確信できることがあります。それは、主イエスが涙する人々の傍らに立ち、一緒に涙されている、ということです(ヨハネによる福音書11章35節)。私たちは、議論ではなく、知りえないことは主の涙にゆだね、涙する人々の涙を受け止めることが大事なのです。
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by rev_ushioda | 2011-03-15 10:13 | Comments(0)