「永遠の明日」

私たちは、時として、病院にお見舞いに行くことがあります。骨折とか、直る見通しがある場合と違って、内科的な病気の場合は、言葉に ずいぶん気を遣うのではないでしょうか。

ある人が、明日が手術という、その人のお見舞いに、病院に行ったのです。しかし、翌日、その人は帰らぬ人になってしまった。お見舞いに行ったその人は、神学生、まだ牧師の卵でした。見舞った人が亡くなってしまったために、「自分は何もできなかった・・神学生でありながら、何の慰めも語れなかった」と落ち込みました。しかしその時に、先輩の牧師がその人に言ったそうです。「君は別れる時、何と言ったのか」「では、また明日会いましょう、と言いました」「それなら、君は“永遠の明日”を指し示したのだ。君が普通の人として“明日”と言ったのなら、それは単なる挨拶に過ぎなかった。しかし君は信仰者として病人のところに行ったはずだ。だったら、“また明日”と言ったその明日は、亡くなった人にとって、永遠の明日になっている」。
私の好きな話です。同じ言葉でも、相手にとって永遠の明日を指し示す言葉になるというのです。私たちは、つたない言葉しか知りません。いえ、その言葉さえ失ってしまったり、かえって人を傷つけることもしばしばです。しかし、そのような無力を感じるしかない中にあっても、私たちは人間として心を高く上げることができるのです。そして、もしそうできるなら、― その言葉は、意味を持ってくるのです。その言葉は、もう違った意味になってくる。人に対して、もちろん自分に対しても、「永遠の明日」を指し示すことにさえ、なってくるのです。

私は、礼拝の終わりの祈りを、次のように祈ります。「主イエス・キリストの恵み・・が、あなたがた一同と共にあるように、今、そして明日も」。永遠の明日に向かって、さあ、共に立ち上がって行こう。これが、教会の祈りなのです。

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by rev_ushioda | 2011-03-08 20:59 | Comments(0)