「蓼川のような」

私が前に住んでいた土地に、蓼(たで)川(がわ)という川が流れていました。昔はその辺りに蓼という草が生い茂っていて、それが川の名前になったのでしょう。厚木飛行場の中を流れ、やがて引地川に吸収される、全長7キロくらいの小さな川です。
ところで、この川には水源がありません。昔はあったのですが、今は埋め立てられ、クリーニング工場になってしまったのです。では、そこを流れている水は何かと言うと、その工場の排水であり、近くの家々から流れ出る生活排水なのです。そうなると、これはもう、生きた川などではなく、実は命のない川になってしまっているのです。
私はこの話を聞いたとき、私たちに似ているなあ、と思いました。水源がない。つまり、人を本当に生かすものがなく、あってもそこにつながっていなくて、生活排水が流れているような人生に似ている、と思ったのです。ただ日々の生活を処理しているだけで、それで、毎日けっこう忙しくはしていますが、生きているように見えますが、実は生きていないのです。
聖書を開くと、私たちは、私たちを造ってくださった方から離れ、勝手に好きなことをやっている、という人間理解を示します。つまり、水源を持たず、的外れの人生を歩んでいるから、たわいもないことで不安や恐れを感じ、人間関係においても、ねたみ、争いが絶えない、と言うのです。あなたがこの人間理解に賛成する、しないはともかく、どうでしょうか。あなたは自分と調和し、人とも調和して、豊かな歩みを営んでいらっしゃいますか? ある年配の方が、自分には何の問題もないと言われました。ところが、そのご家族が、おじいちゃんの頑固には困っている、と周りに漏らされました。自覚しているか、いないかの問題であって、私たちは、どうもあの蓼川のように水源を失って、自己中心的な生き方をせざるを得ない者のようです。
どうでしょうか。人生の創造者、水源となってくださるキリストという方に、今、少しだけ、あなたの顔を向けてご覧になりませんか。
f0086426_23354999.jpg

                   写真は、綾瀬市のホームページより

後日、「蓼川・比留川の姿 - 橋とともに」という、蓼川の源流をたどるホームページを見つけた。その中の、蓼川源流地帯 というページを開くと、写真が豊富で、また、なかなかの労作であることが分かる。そして意外だったのは、どうやら、源泉はあるようだ。どうやら、というのは、源泉の最終確認までは、していないからである。それにしても、なぜ私が上のような文を書いたかというと、1985年2月6日、朝日新聞に「小さな川の二月」という記事があり、そこに水源のない川として紹介されていたからである。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
↑ ランキングに参加しています。よろしく。
[PR]
by rev_ushioda | 2011-02-10 23:13 | Comments(0)