「石垣山 一夜城へ」

正月の休みを利用して、小田原の石垣山、一夜城祉に行った。例によって旧街道に行きたいのだが、今はちょうど鈴鹿峠にさしかかっていて、冬は雪がよく降ると聞いているため、冬にそちらに行くのは断念。近辺を散策することにした。
小田急線入生田まで行き、そこから早川にかかる「太閤橋」を渡る。道は舗装されて立派なのに、「この先、通行止め」と書いてあるが、朝日新聞「私の散歩道」に紹介されていて、そこにもそのように書いてあるので、心配せず、車の来ない車道を進む。
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一夜城は、豊臣秀吉が小田原城を攻めたとき、一夜にして築き、敵方をあっと言わせたという城だが、実際は3ヶ月ほどかかった築城だったと言う。それにしても石積みの後を見ると、しっかりしたものであったことが想像でき (現在は、関東大震災で崩落した状態)、見せ掛けの城かと思っていた私は、こんな山の上によくもこんな大工事ができたものだと感心した。それだけではなく、秀吉はここに100日ほどいた間に、天皇の勅使を招いたり、千利休などによる茶会も開いたりしている。権力を誇示するためだと書いてあった。
小田原の町と海を一望の下に置いて、秀吉がなぜここに城を築いたかを考えていると、なるほど、良くも悪くも天下人になるには、立つ場所、そして発想の仕方、行動力と気合いの入れ方が違うんだと思った。

いわく 「石垣山は、本来 『笠懸山』と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き志気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。この地は国立公園区域および国指定史跡に指定されています。 」
(下記ビデオ中に案内板の説明を写したが、画面では画質が粗くて読めないので、やむなく、ここに転載)
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石垣山の全貌は、こちらのブログに写真をふんだんに使って詳しく紹介されている。→ 「Love 城! Go名所旧跡」

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by rev_ushioda | 2011-01-03 22:57 | Comments(0)