「永遠に向かうカタパルト」

4年前から、夫婦で東海道を歩いて京都まで行くんだと言って、休暇の度に少しづつ、距離を延ばしてきました。まだ行ったこともない、はるか彼方に向かって地図を見ながら、少しずつ歩いて、今は、三重県から滋賀県に入ろうとする鈴鹿峠手前まで行きました。電車に乗ったり高速道路で走り抜けると、とても歩けないだろうと思ってしまう距離も、時間さえあれば、歩けるのです。
さて、しかし、風邪をひいたり、腰を痛め、足をひきずったりと、現実は、こんなものです。さあやろうと思っても、足元でずっこける。夫婦二人の調子が合わなければ、そこで、また延期。これが現実ですが、しかし、思いはずっと目的地である京都を見つめ続けているのです。生きているうちには行けるだろう。それでいい。
先を見ていると、不思議に毎日の景色は、心なしか華やかになる。思いがけず、違った景色にも見えてくるのです。苦しいことも、越えられない苦しみではない、なんて思えたりするから、先を見ているということは、なかなか不思議なものです。
話は変わりますが、教会は、そういうところではないでしょうか。キリスト者は、そういう人ではないでしょうか。先を見て生きるという意味で。もちろん、先というのは、神の国。現実は、ずっと手前でなにやら苦労しているのですが、しかし、先を見ているのです。
水平線に向かって投げる石が、しかしそんなところまで届くはずがなく、そのあたりにポチャンと落ちる。それでも水平線に向かって石を投げ続ける。教会は、永遠に向かうカタパルト(石投げ機)なのです。そのように神の国の希望を語り、生きていると、いつしか隣の人も、その方向に向かって、石を投げ始める。どこを見て、何をしているかが大事なのです。
教会は、神の国に向かって歩き続け、共に歩き始める仲間を求める、永遠に向かうカタパルトでありたいと思います。

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by rev_ushioda | 2011-01-02 06:00 | Comments(0)