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「葬礼拝説教」

人には、様々な人生があります。そのいずれも、うまく生きようと思っても、なかなか、そうならないものがあります。

Kさんは、寝込んでからですが、娘さんの話によると、こう言われたそうです。「自由に生きさせてもらいます」。それを聞いて、Kさんを知っている、ほとんどの人は、思い切り自由に生きたじゃないか、と思うかもしれません。しかし、なお、そう言いたい気持ちがある、ということではないかと思います。
また、こうも、言われたそうです。「いいおじいさんと言われたい」と。「いいおじいさんと言われたい」というのは、そうありたい、しかし、現実はなかなかそうならないということでしょうか。自分は、うまく生きたいと願っている。なのに、失敗してしまう。しかしこれが、およそ、すべての人間なのではないでしょうか。こうありたいという希望と、現実の違いを、私たちは自分なりによくわかっているのではないでしょうか。
「いいおじいさんと言われたい」と聞くと、近くで知る人は、いまさら何を言っているのか、と思うのかも知れません。本人の気持ちは、しかし、やはりそういう言葉の端端に現れてくるのでしょうか。こうありたい、しかし、現実は、なかなかそうはいかないものを考えていたのでしょうか。そして、それが人間というものなのです。

そうであるとしたら、では、生きる意味はどこにあるのか、ということになります。聖書にはたくさんの人が出てきますが、そういう人々の足跡は、私たちに大事なことを語っていると思いますので、葬儀に際して、1箇所、引用させていただきました。
ここには、ヤコブという人のことが書かれています。この人は、兄との関係が、どうも、うまくいかない。生まれたときからうまくいかなかった。兄との確執をずっと引きづって来たのです。しかし、どうやらそれはお母さんが子どもたちを愛する愛し方に問題があったようだと聖書は言っています。詳しく言う時間はありませんが、家族の中でさまざまな確執があったのです。聖書の人にさえも、そういう問題があったことを聖書は隠していません。
いずれにしても、ヤコブは兄から「殺してやる」と言われ、そこでお母さんが私の親戚を頼りなさい、というわけで、旅に出ることになった。夜、石を枕に眠る。その時の話がここに引用した聖書の言葉なのです。寝ているヤコブのところに、天につながる階段がおりてきて、主(神)がそこに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と。

父親がイサク、祖父がアブラハムです。こういう名前を見るときに、そこには、それぞれの人生があったことを思います。
ヤコブのお父さんイサクが生まれる前、実は、祖母は高齢で出産をあきらめていたのです。そこで祖母は、その家にいた召使の女によって夫アブラハムに子どもをもうけさせていた。ところが、その女奴隷は、子どもを身ごもったと知るや、祖母のことを見下すようになっていくのです。祖母は、夫アブラハムに、この召使いを追い出すように言い、アブラハムは、仕方なく、そのようにしてしまいます。ここに見えるのは、家庭の混乱です。これがアブラハム。祖父の家庭でした。
やがて、高齢ではありましたがこの祖母夫婦に、ヤコブのお父さんになるイサクが生まれるのです。このお父さんのイサクはイサクで、飢饉のために土地を点々とする先で、人が妻を奪おうとしたらどうしようか、心配になる。そうしたら自分が殺されるかもしれないと心配した。それで、自分たちは夫婦であると言わず、妻を妹と偽ったことがありました。自分中心というか、妻を守れない優柔不断な男の姿があります。

さて、今、簡単にこのアブラハム、イサクの話をしたのは、それぞれに失敗があり、弱さがあり、夫婦、家族の問題があったということをお話したかったからです。ヤコブの父親は、イサクです。おじいちゃんはアブラハムです。皆、それぞれにうまくいかないことも多々あったのです。しかし、神さまは言われるのです。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と。ここが大事です。
神さまの方では、この人の神、この人の神と、恥じることなく言ってくれる。あのような、情けのない人、あのような、欠けの多い人を私は知らない、とは言わない。
神さまは、人間の失敗も、欠点も、恥も、何もかも引き受けて、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である」と言われるのだと思うのです。私たちがどう思おうとも、神が人の名誉を守る、と言ったらよいでしょうか。だから私たちは、色々な思いを引きずらず、この神さまに、一切、任せておけばいいのです。
 そのアブラハム、イサクから、 ヤコブが生まれる。

ヤコブも、そう望んだのではないにしても、兄弟との仲が良くなかった。だから、こうして野宿してまで、親戚を頼る。ヤコブが、兄と仲たがいした理由は、ヤコブの嘘が原因でした。
血は争えないと、よく言われます。お父さんイサクが妻のことを妹ですと嘘を言って、自分の身の安全を図ったと言いましたが、お話しませんでしたが、実は、おじいちゃんアブラハムも、同じことをしていたのです。うそを引き継いでいるのです。そういうことが続いていくのです。ですから、この家族は、うそをつく弱さを引き継いだと見てもいいのかも知れません。

しかし、(聖書の各世代について長く話しましたが)聖書が言う大事なことは、人間の弱さの連鎖の話ではありません。そうではなく、各世代は、神さまの祝福をこそ、受け継いだということなのです。ヤコブへの祝福の言葉を、私たちはここに読むことが出来ます。人間の弱さを越えて、神さまの祝福のほうが強い、ということを聖書は書いているのです。

娘さんたちは今、信仰をいただいて、キリスト者として日々、歩んでおられます。下の娘さんは、Kさんがなくなった日、洗礼30年を迎えられた。翌日は、姪のKMさんが25年を迎えています。だから、二人の娘さんたちは、キリスト者となるために生まれた、と言えるのではないでしょうか。キリストにある新しい命を引き継ぐために、このご両親から生まれた、と言えるのです。生まれなければ、こうして、信仰に生きることはできなかったからです。キリスト者になるために、そこに、ご両親がおられたのです。神さまは、そのようにしてご両親の存在を一方的によしとしてくださっていたのだと思います。

聖書を見ると、神さまは私を母の胎内から見ておられた、いえ、天地創造の前から選んでおられた、と。しかし、もう一度繰り返します。いくらそのように選ばれていたとしても、そこに親がいなければ、人生は1日だってありません。子どもたちを信仰に生かすため、Kさんは、その存在が備えられたのです。神さまが備えてくださった人なのです。そうでしょう?
アブラハムもイサクも、そしてヤコブも、聖書を読んでいくと、やがて「アブラハムの神、イサクの神で、ヤコブの神」と、そのように言われるのです。ヤコブにも人一倍、弱さがあったのです。しかし、神さまから見れば、誰も、何も変わらない。神さまは、おそらく「Kさんの神」と言われることも、恥としない。こうして、祝福を家庭に、祝福を親戚に、そして祝福を世に、満たそうとされるのです。私たちは、その祝福を受け継ぐ人なのです。そのために生まれた。そして人生を与えられた。そこにKさんがいた。

Kさんの葬儀をきっかけに、私たちは皆、神さまから祝福に招かれていることに気づきたい。招かれているのは、次の世代に、祝福のバトンをこそ、確実に渡すためです。私たちは、招いてくださった神さまに向かって、今、この器を差し出していきたい。残りの人生を、神の祝福をこそ、広めるために差し出していきたい。そういう仕事をしたい。そういう信仰に生きていきたいと、思うのです。
 
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by rev_ushioda | 2010-10-20 16:39 | Comments(0)

横浜で牧会する牧師のブログです。


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