「大岡裁きも通用しない、人の心」

大岡越前の守と言えば、誰もがよく知っている時代劇のヒーローです。実は私が19年間住んだ座間市の広報に、座間市は大岡越前の守と関係がある、ということが書かれていたので興味を引かれました。
今から250年前、大岡越前の守が南町奉行であった時のこと、座間市で境界線をめぐってこぜりあいが起こったそうです。当時の座間村と栗原村という二つの村の境界線をめぐってのこの土地争いは、やがて「評定所」(今で言う、最高裁判所というところでしょうか)に持ち込まれることになりました。そこで、大岡越前の守のご採決ということになったのです。他の何人かの奉行との連名判決の古文書が残っています。
さて、それで一件落着したかと言うと、実は、その後、明治8年になってこの争いが蒸し返されることになり、またまた4年以上の歳月をかけて争った結果、大審院という、これも最高裁判所のようなところでしょうか、そこでの裁判に持ち込まれていった、というのです。さしもの大岡裁きも、座間市では通用しなかったということでしょうか。
こうして、本当にやっかいなのは実はこのような土地の境界線争いを繰り返し引き起こす、人間そのものだということがわかります。人間関係の中で自分の「分」を譲らず、主張し、引くことを知らない。これこそ、大岡裁きであっても容易に解決しない難しい問題なのです。聖書に、こう書かれています。「人から出て来るものこそ、人を汚す。…人間の心から、悪い思いが出て来るからである」。
表向きはどんなに良くても、人間が内側から出て来るもので支配されているとしたら、情けないではありませんか。─ キリスト教が大事にするのは形や体裁を整えることではありません。そうではなく、内なるものに自由、平和、命が与えられることです。キリストは、あなたが創造的に生きることができるように招いているのです。あなたも、内なる自由をお持ちになりませんか。

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by rev_ushioda | 2010-08-23 21:30 | Comments(0)