「キリストにはかえられません」

説教の準備をしていて、讃美歌「キリストにはかえられません」について考えているとき、佐藤昭三という人の次の記事に出会った。心に残ったので、ここに紹介しておこう。転載不可とはなっていなかったので、大丈夫かな?出典は下に記載。

以下、転載文。

それは今から24年前の古い話ですが、1984年(昭和59年)12月の或る日

私は大手町の日経ホールに「佐藤則子・イタリアオペラの夕べ」というリサイタルに行きました。
佐藤則子さん(注)は当時オペラの本場イタリアで屈指のオペラ劇場、ミラノスカラ座の専属、しかもプリマドンナ(オペラの主役女性歌手)として活躍中のソプラノ歌手でした。

中略

さて当夜、会場の椅子に座り、おもむろにプログラムを開いて “おやっ、これは何だ”と怪訝に思いました。その夜の曲目は10曲で、最初の曲がヘンデルのオラトリオ「ヨシュア」からである他、2曲目から9曲目までが、ヴェルディ、プッチーニ、ビゼー等のオペラの名アリアであったのは当然でしたが、最後の曲が讃美歌「キリストにはかえられません」と印刷されているではありませんか。
この音楽会は、キリスト教とは無関係な一般向けの企画ですから、このプログラムを見て私がいささか戸惑ったことは、皆様のご想像に難くないと思います。

中間に休憩をはさんで、プログラムは予定通りに進行、私が予てから知っていた曲は3曲ほど(その内の1曲は、プッチーニの蝶々夫人からの“ある晴れた日に”)しかありませんでしたが、知らなかった曲も、歌手の優れた歌唱力によってそれなりに楽しんで聴きました。そして9曲までがすべてイタリア語(多分)で歌われ、最後に前記の讃美歌が日本語で歌われて終わったのでした。
普通に考えれば、プログラムの最後を飾る曲は、イタリアオペラ名アリアの中で彼女が得意とする曲、あるいは聴衆が喜ぶであろうイタリアオペラの中のポピュラーなアリアではないでしょうか。

讃美歌第Ⅱ編195番(注)のこの曲の歌詞は次の通りです。

  1 キリストにはかえられません、 世の宝もまた富も、  
    このおかたがわたしに     かわって死んだゆえです。
      (くりかえし)
    世の楽しみよ、去れ、     世のほまれよ、行け。
    キリストにかえられません、  世のなにものも。

  2 キリストにはかえられません、 有名なひとになることも、
    ひとのほめることばも、    このこころをひきません。

  3 キリストにはかえられません、 いかにうつくしいものも、
    このおかたでこころの     満たされているいまは。

  (注)讃美歌Ⅰ~Ⅲ編は、21世紀を迎えるに当って、1997年に大改定が行われ、
        讃美歌21に代わりましたが、この曲は讃美歌21では522番として、
     歌詞・メロディーともにそのまま引き継がれました。

上記の通りこの曲は、キリストが私に代わって死んで下さった故に、世の宝も、富も名声も、いかに美しいものも、何物をもってしてもキリストには代えられません、という信仰告白の歌です。この夜彼女が最後にこの讃美歌を、その前後に何の説明もつけず、何の気負いもなく、ごく当たり前のように歌い終った時に、私は、ああそうゆうことだったのかと気付きました。 聖書はキリスト者に対して次のように促しています。
「み言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(新約聖書:テモテへの手紙二 4章2節・・・・新共同約) 

オペラ歌手として相応な名声と地位を確保した彼女が、その美しい声で会場の聴衆を魅了したその直後に、富も、名声も、いかに美しいものも、キリストには代えられませんと歌わずにいられなかった、真摯な思いの一人のキリスト者の姿をそこに見たのでした。 この讃美歌はその優れた歌詞とともにメロディーも美しく、私の愛唱讃美歌の一つとなっていますが、この曲を唄うときにはいつも、あの夜のことを思い出すとともに、名声や、富や、世の快楽に心をひかれる己の姿と思い比べて、ひそかに恥じている次第です

出典・原文 → http://www2.tranzas.ne.jp/~smikio/kirisuto.htm

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Commented by ミリアム at 2010-08-17 12:00 x
人は、自分の好きなこと、自分らしさを発揮できることの中に潜む「危険」になかなか気づきません。
プリマドンナという地位と名声があって、なお、キリストの前に謙譲に生きる、素晴らしいことですね。

そうのように生きたいと思いつつ、人の言葉に振り回されていたときに、つぎのような文章に出会いました。

「・・・イエスの生涯の大きな特色は、その目立たない生き方にありました。祈りを真剣に受けとめ、自らイエスと同じいのちを生きようとし始めるとき、私たちの歩みの大半は、誰にも注目されないものとなることを覚悟しなくてはなりません。・・・神とともに歩む隠れた生活、人目に隠れた歩みこそ、私たちの祈りの純度を示す重要な刻印です・・・イエスの生き方を自分の生き方とする歩みと表裏一体であるのは、・・・見せかけの自己イメージ、肩書き、レッテル、評判を拒否することです・・・」
(フーストン カナダの神学者)
Commented by rev_ushioda at 2010-08-17 18:00
今日は初めてのチラシ配布を有難うございました。高い「祈りの純度」を刻印しましたね。
by rev_ushioda | 2010-08-15 07:29 | Comments(2)