「感情の言語化を」

群馬県に「わたらせ渓谷鉄道」があります。かつての足尾銅山に行く鉄道ですが、その沿線に「富弘美術館」があって、ある時、そこに行く機会がありました。そこには不慮の事故で車椅子の生活になった星野富弘さんが、口で描いた絵と詩が展示されています。

その星野さんが入院中のことです。病院の廊下で、キツネの襟巻をしている人とすれ違ったのです。「からだの中をすっかり空にされ、皮だけになったキツネは、その人の首からずりおちないように、まるくなって自分のしっぽをかんでいた」。
その時のことは、星野さんにとって大事な経験でした。小学生向けの本の中で、次のように本に書いています。「その目が悲しそうに見えたのは、そのガラスの目玉の中に、自分の心がうつっていたからかもしれません。わたしは、忍耐ということばがすきでした。わたしのところへくる手紙のなかにも、ずいぶんそのことばが見られました。でも、えりまきにされてしまったキツネを見たとき、たえれば、たえるほど、自分のからだに歯がくいこむような毎日をおくっている自分を見たような気がしたのです。そして思いました。いまのわたしにとって、忍耐などということばはいらないのではないか…」
「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ/私のように動けないものが動けないでいるのに/忍耐など必要だろうか/そう気付いた時/私の体をギリギリに縛りつけていた忍耐という棘のはえた縄が/“フッ”と解けたような気がした」。

なぜこの話をしたかというと、ここが大事で、最近の新聞に次の記事があったからです「小中学生の暴力6万件 ― 小中学生急増― 感情や行動、激化」「怒り制御できぬ子ら」。
ある先生が「子どもたちはコミュニケーションが下手だ」と言っておられましたが、この新聞報道のような現実が、背景にあったのです。

さて、しかし、大人は子どもたちに安心してコミュニケーションさせているかどうか、ということが、私たちのテーマです。正確に言えば、子どもの感情を、大人がきちんと受け止めているか。子どもに、感情を言葉で言わせているか。私たち大人が、感情を受け止める姿勢を持っているかどうか。そうではなく、「大人が先に切れて」いないだろうか。
子どもも大人も、自分らしく生きることができないで、自分を愛するのは自分しかいないのに、その自分を鞭打って、頑張れ、頑張れと言っていないでしょうか。苦しい感情は、しまいこんで…。
星野さんは「たえれば、たえるほど、キツネの襟巻のように自分のからだに歯がくいこむような毎日をおくっている自分だった」と言っています。当然、いつか問題行動となって爆発します。

皆さんに、星野さんも勇気付けられた言葉を贈りましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11:28) 

(心を聴く市民ネットワーク会報「そよ風」2009.12.10号より)

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ
↑ ランキングに参加中。ひと押しご協力を
[PR]
Commented by 海二 at 2009-12-08 18:26 x
いい文章だなあ・・・。
Commented by ミリアム at 2009-12-08 21:12 x
本当ですね。

私、証しにこの聖句を書いたおぼえがあります。
Commented by owner at 2009-12-08 22:05 x
本当に、いい証しですね、星野さんのものは。
by rev_ushioda | 2009-12-07 21:17 | Comments(3)