「明るすぎて、見えないということも」

こんな譬え話を聞いたことがあります。
「ある漁船が、月のない暗い夜に漁をしていて、方角を見失った。船乗り達はたいまつをかざして自分の位置を確かめようとしたがわからない。天候は悪く、岸へ戻れないのは命に関わるので、皆、必死で明かりをかざした。その時、一人の賢い船乗りが、たいまつを全て消せと言った。その言葉に従い明かりを消すと、真っ暗闇になったが、次第に目が慣れて、遠くの岸の、町の灯りが見えるようになった。そこで船は岸へ無事に戻ることができた。」
手元が明るすぎるため、本当の方角が見えなくなる、ということがあるのです。手元が明るいというのは、たとえば、分かっているという知識です。できるという自信です。持っているという満足です。不安からも、手元を明るくすることがある。そうすると、当面のことはできるのです。しかし、本当のことが見えなくなる。アメリカが軍事力をもって世界に出て行くとき、懸命に明かりをつけているのでしょうが、しかしそのことで本当の方角が見えなくなっているのです。かつて、日本もその過ちを犯しました。いえ、今なお、自分自身が、そうなのではないでしょうか。分かっているという時、そこに偽りがある。できるという時、そこに過信がある。明るいからこそ、方向を誤らせることがあるのです。
持っていると思うものを一度捨てる。それは不安なことであり、恐ろしいことです。無意味だと思う。だから手身近なところにある明かりで間に合わせようとしますから、そのために私たちは残念な事を数多くしてきたのです。人を傷つけ、悲しませてきたのです。そして、そのことに気づいていない。だから、そのことを今も、繰り返しているのではありませんか。一旦、明かりを消すことから、見えてくるものがあります。
イエス・キリストの言葉「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」ヨハネ9:41

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by rev_ushioda | 2009-09-10 22:01 | Comments(0)