「今まで一番恐かった話」

ちょうど今頃のことでした。子どもたちのために計画した夏のハイキングの下見のために、私は、西丹沢の山を歩いたことがあります。雨が降っていたのですが、3時間位の山道を、私はその入口から歩き始めることにし、一方、妻にはひと山越えたコースの出口に車をまわして、そこで待つようにと打合せして、一人で歩き始めたのです。
雨の丹沢は、さすがに歩く人は誰もいません。1時間くらい歩きますと、一つの看板が目に留まりました。正直言って、あの時ほど背筋が寒く感じたことはありません。その看板には、こう書かれていたのです。「熊に注意」。
注意と言われても、どのようにしたらいいのでしょうか。山で熊に鉢合わせし、格闘の末、大怪我をした、死んだ、という人のニュースが頭をよぎります。恐怖のため、まったく途方に暮れてしまい、引き返そうにも妻が先で待っていますから、戻るわけにもいきません。鈴を鳴らせばいい、ことくらいは知っています。しかし、音を出したら熊に気づかれてしまう。恐いときには、そう思うのです。音など、出せないのです。途方に暮れながら、おそるおそる歩いて行くと、行く手で「ガサッ」と音がしたのです。「出たっ」と思った瞬間、私は、その時には登ればいいと定めていた、すぐ近くの木に登っていました。様子をうかがうこと数分、やっと、それは笹の葉に落ちた雨垂れの音だとわかったのです。
あの看板、おそらく人のためにと思って一生懸命立ててくれたのです。しかし注意を呼び掛けるだけで、それを見た者がどうしたらよいか、そこまでは書かずにその場を離れてしまいました。その結果、私は命を縮める思いがしたのです。
私たちは、実はあの看板のようなことをいつもしたり、言ったりしているのではないでしょうか。これが「愛」だと言って、自分なりに一生懸命やって、満足しているけれども、しかし、相手が何を感じているか、までは考えないのです…。
聖書は、こう言っています。「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました」。私たちのため、命を捨てるほど自らの計画を変更し、徹底して寄り添うイエスという神がいる、と言うのです。ここに、愛があると。イエス・キリストの愛は、私たちのために計画を変えて、不安な人、恐怖におののく人、孤独な人の気持ちに寄り添う愛なのです。

参考に、ある町のホームページ:
もし出会ってしまったら!

遠くに熊をみつけたら
慌てず・騒がず・静かにその場を立ち去りましょう。小熊だからと云って決して近づかないこと。近くには親熊がいます。

熊がこちらに気付いたら
決して刺激を与えないこと。大声で叫んだり、物を投げつけたりしてはいけません。兎に角、じっと動かず熊が立ち去るのを待ちましょう。

それでも近づいてきたら
熊に向いたままそっと下がること。背中を向けて逃げると本能的に襲ってきます。荷物などをそっと置き、熊の気をそらしながらゆっくり立ち去りましょう。

いよいよ襲われることが確実なとき
「死んだふり」をしても噛まれたり引っかかれたりします。くぼ地や岩の間などの隙間に体を密着させ、頭や首筋、腹などを腕で保護し、熊が立ち去るまでじっと耐えましょう。


「じっと耐えましょう」ですって!! ひっかかれても、かじられても?

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Commented by 海二 at 2009-07-03 23:53 x
>ひっかかれても、かじられても?

クマったものですね?!
Commented by kenn@izumi at 2009-07-04 10:31 x
はい。「クマったものです」  (^^) 相変わらず「好調」ですね。
by rev_ushioda | 2009-07-03 15:14 | Comments(2)