「世界祈祷日」

「世界祈祷日」の礼拝が、私たちの教会で行われた。「世界祈祷日」は、世界170の国において、同じテーマで祈るいのりのプログラム。1887年、アメリカ合衆国の長老派教会の女性たちが、移民者や、いろいろな形で抑圧されている人々をおぼえて祈祷日を持ち、これが起源となっている。1945年以後、教派を越えて広がり、日本ではNCC女性委員会が中心に進めており、カンバーランド長老教会では、女性会が推進している。世界中、どこでも毎年3月の第1金曜日に実施されている。一つの祈りを世界中の教会で祈る。何とダイナミックな運動だろう。
今日は、あいにくの雨であったが、渋沢、さがみ野、あさひ、そして泉教会の、4教会が集まった。ほかに、地域のカトリック教会の2名、婦人矯風会の会長さんが加わり32名であった。今回のテーマは、「私たちは多くいても、キリストにおいてひとつの体です パプアニューギニアからのメッセージ」。説教は、私であった。以下、要約。

今日の聖書の言葉に、「持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」とあります。自分のものだと、「言う」者がなかったのです。持ち物は、ある。皆、別々の財産を持っていたのです。しかし、この持ち物を「自分のものだと言う者が」なかったのです。
では、誰のものと言っていたのか。直前の記事を読んで行くと、すべてのものは神のものであり、神から預かっている、そのような考えを持っていたことが分かります。自分のものだから、自分の使いたいように使い切ってしまったのではないのです。自分のものを持ち、しかもその持物を自分のためだけに使い、自分の考えで何でも判断し、自分勝手に使うというようなことが一般にあったと思うのですが、それを私物化と言うならば、教会は、それとは反対の所有のしかたをした、と言うのです。
三浦綾子さんのお話の中で、自分の家の上棟式の話が出てきます。その時、秘書がこう祈った。「どうか、この家を私物化することがありませんように」。本来、住宅というものは私生活の場である。その家を私物化するのが当たり前。しかし、それをしないようにと言うのは、本当にそうだという意味で、すごい祈りだと、本に書いているのです。教会は、所有を私物化しない生き方に生かされている共同体なのです。
ところで、聖書には「主イエスの復活を証し」と書かれています。自分の所有を仲間のために分かち合うという行動は、やがて主イエスが今、ここに、確かに生きておられる、という証しにつながった、というように読みとれます。宣教の言葉だけでなく、教会は具体的な生活をもって主イエスの復活を証ししたのです。それは、逆の意味では、主イエスの復活を証する教会共同体は、ひとりひとりの多様な所有を、他者のために役立てるための十分な動機を持っていた、持っている、ということになります。
私たちには多様性があります。おのおのの、所有物を持っている。それがお互いとの間を切り刻み、細切れにしているのが現代社会です。細切れにされたお互いは、お互いに価値観を競い、どちらが相手に対して優位であるかと争っている。こうして、人間の多様性は、少しも一致を見出し得なくなっています。
しかし、主イエス・キリストにあっては、その多様性は、お互いを引き離すものにならず、互いを分断せず、却ってその違いが良い影響を及ぼして、ひとつの体、共同体を作ることができるのです。「私たちは多くいても、キリストにおいてひとつの体です」。主イエスの復活を証しする時、教会こそが、お互いの違いを認めることができ、教会こそがその違いをひとつにすることができるに違いありません。
「私たちは多くいても、キリストにおいてひとつの体です パプアニューギニアからのメッセージ」は、私たちをもう一度、主イエスの復活を証する共同体に、引き戻すメッセージであるに違いありません。そして、主イエスの復活を証する共同体として、今度は、この世の中の多様なあり方をつなぐ役割を担うのです。そういうものとして、復活の主イエスによって、今日、この場所から遣わされる私たちでありたいと願います。

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by rev_ushioda | 2009-03-07 00:01 | Comments(0)