「傾いた時計」

ある教会の壁に、大きな時計がかけてありました。でも、何か変なのです。よく見ると、傾いています。そばにいた人に、時計が傾いていることを話すと、いや、これでいいのだと言う。この傾きを直すと、止まってしまうのだと言う。つまり、時計の外枠と中の機械部分とがまっすぐに留められていないため、こういうことになったということです。壁にかかっている絵の額など、曲がっているとすぐに直したい私には、どうも落ち着かない時計でした。
しかし、その時計を見ていて改めて、ひょっとしたら私たちもこんな感じなのではないか、と思ったのです。真直ぐに立っているようで、実は傾いている。傾いているので、人間関係に調和が保てないわけです。依存的になってみたり、支配的になってみたり、いつもぎくしゃくしているのではないでしょうか。また、ものの考え方や世界を見る目、といったところにも、実は偏見や差別が付きまとっているのではないでしょうか。どこか傾いている、と言った方が真実に近い気がするのです。
だからと言って、神は私たちを捨ててしまわない。傾いたままで、あの時計のようにちゃんと居場所があるのです。受け止められたその場所で、あなたはキリストご自身と、その方がすることを、じっと見つめるように、と神は置いていてくださるのです。あの傾いた時計が教会にあるのは、象徴的でした。あの時計のように、私たちは誰も傾いたままキリストに受け止めてもらえる、ということです。イエス・キリストは言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。傾いた者、倒れかけている者、曲がった者を招くために私はいるのだ、と言われたのです。ですから、このキリストの前から(教会から)、私たちは始めることができるのです。教会は、立派な人が行くところではないのです。どういうわけか傾いてしまっている、しかし自分の居場所を発見した人が、そこにいる。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではない」のです。

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by rev_ushioda | 2009-03-01 21:35 | Comments(0)