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           牧師の部屋にようこそ     
               
   

       これは牧師の個人的なブログです。
       まず、教会の近くからの景色をご覧ください。これが教会のある場所です。
       晴れた日の夕方は、この場所は「観光名所」になります。
      (注:下の動画にはBGMが入っています)

           

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     私の趣味は旧街道歩きです。関心あれば、「東海道/中山道を歩く」もどうぞ。


3.教会案内

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ご注意:ブログに付けられる広告は、当方と一切関係ありません

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# by rev_ushioda | 2017-12-31 23:59 | Comments(0)

「講演」

講演依頼を受け、レジュメを準備したが、う~ん、やはり、一日かかってしまった。レジュメは以下。これで2時間弱。いわゆる企業研修ということで本職とは違うが、社会貢献できるのは悪くはないと、今回、昨年に続いて2度目の講演となる。

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# by rev_ushioda | 2017-08-18 00:26 | Comments(0)

「サムエル ナイト」

教会で子どものお泊り会「サムエルナイト」が行われた。去年からこの名前で始めた土曜日から日曜日の礼拝にかけてのプログラムである。開会礼拝、湘南台文化センター、教会でおふろ、ギョウザパーティー、賛美集会、お泊り、朝の散歩、そして礼拝という内容。大人の人たちの協力をいただき、特に子どもたちと一緒に一泊してくれた山本夫妻、また、夜の賛美集会は外部からギターを弾ける伊能先生の協力をいただき、何とか終了。
子どもたちは、「教会で大事なお祝いの日は3つ、何と何か」ときくと、クリスマス、イースター、サムエルナイトと答えるほど、大好きである。(三つ目は「ペンテコステ」が正解)

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# by rev_ushioda | 2017-08-13 00:31 | Comments(0)

「アジア青年交流会」

いよいよアジア青年交流会(AYG)が近づきました。アジア諸国から、カンバーランド長老教会に属するたくさんの青年たちがオリンピック記念青少年センターに集まります。そして来週の主日には、私たちの教会にも、海外から5人が、また、日本の教会から参加した3人が泉教会の礼拝に出席します。来られるのはフィリピン、香港の青年たち、および韓国からの牧師です。どうぞ、良い礼拝となりますように。また、良い交わりが出来ますように期待します。
私たち、日本にあるカンバーランド長老教会(13教会)は、海外にある同じカンバーランド長老教会の教会との交流が活発です。特に、アジアにある諸教会との交流は、香港の教会との交流から始まりました。まだ中国に返還される前でした。1984年の総会で、香港のグレース・ユー姉が、中国返還を前にしてメッセージされましたが、その時、総会会場にいた私は、そのメッセージを録音し、翻訳して中会に紹介しました(『ぷれすびてり』№36)。そこにこういう言葉があります。
 ― 
「私たちが、今日、香港に存在を与えられているゆえに見て行かなければならない役割(注:伝道)というものは、私たち、香港中会だけに与えられたものではありません。もし、教会の建物、計画、そして牧師がとりさられたならば、イエス・キリストの教会としての正しさが保たれるでしょうか。その時、総会の皆様は香港にある教会が応答的、預言者的勇気のあることを知るようになると思います。」

危機的な状況にあるけれども、伝道の門戸は大きく開かれていることを総会会場に訴える力強いメッセージでした。教会の交流というのは、仲よくする、ということに終わりません。力のある者が、ない者のために祈る、というのでもありません。上のメッセージは、危機に直面した香港の教会が「応答的、預言者的勇気のあることを(あなたが)知るようになる」と言っています。すると、祈りは目的をかなえる手段ではなく、祈りによって結ばれることそのものが目標なのだとわかります。祈り合うところに、キリストの体が、見えて来るのです。国を越え、神の国が見えて来るのです。それを確認できるようなアジア青年交流会(AYG)となればと願っています。


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# by rev_ushioda | 2017-08-01 11:52 | Comments(0)

忙しい時期であったが、母がショートに行っている合間を縫って無理にねじ込んだ旅行であった。

結婚40年を機に、ぜひ、行きたかった場所が、伊豆の雲見である。新婚旅行で訪れた土地である。泊まった民宿はどこか、今は思い出せないが、烏帽子山という海に突き出た山があって、その急階段で撮った写真があった。同じ場所でもう一度撮っておきたかった。男ってそういうことで感傷的になると笑われながら、41年を越えて、やっと実現した。それが下の写真。急な長い階段を上りながら、同じ場所を探したが、足元がおぼつかず、今回はついに上まで上るのをあきらめ、途中で撮った写真である。

同じ場所であるのに、しかし、あの時の若い二人はいなかった… 

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右手前の山が烏帽子山。下に見える集落が雲見。
階段のいかに急なことかは、この写真を見れば想像できるはず。
ちなみに、頂上からの景色はこんな感じだ(下)。今回はこの景色が見れず、非常に残念だった。
https://youtu.be/tm26JlkzyOE



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# by rev_ushioda | 2017-07-25 23:51 | Comments(3)

「スマホを無くす」

もう時間が経ってショックも軽減したから書いておこう。
しばらく前にスマホを無くした。まだ替えてから1年も経たないというのに・・
警察にも届けを出したが、結局、見つからなかった。
仕方なくショップに行って相談。1年も経っていないけれど、幸いに旧型だったために新しくしても月々それほど圧迫しないとか云々で、新しいものにしても、ほとんど同額だと分かった。即、新しい端末を購入!
問題は、持っていた住所録をどうするとか、以前の設定に戻すとか、考えただけでも大変である。しかし、icloud というものを使うとよいと言われて(スマホは何を使っているかこれでわかってしまうが)ボタンを数回、、、、何と、何と、手にした新しいスマホの待ち受け画面から、そこに置いたアプリから、その置き方から何もかも、今までとまったく同じになったではないか!もちろん、住所録も! 端末が新しくなって、古いものを無くしてここにはないにもかかわらず、まったく同じになってしまった。

すごいものだね~ 

無くしたショックはどこへやら、このマジックに、いまだに感動している。


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# by rev_ushioda | 2017-07-11 17:42 | Comments(0)

子どもが教会にたくさん来ていた頃の話ですが、教会でバス遠足をしました。バスの中で子どもたちは大はしゃぎで、そのうちに遊び感覚だったと思いますが、こういうやり取りが始まったのです。

「あなたの生きる目的は何ですか?」

「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

何とこれは、当時、教会で子どもたちに教えていた信仰問答の言葉でした。意味はわからないかも知れません。しかし、教会の言葉がこのようにすぐに口に出て来るということの素晴らしさを感じた一瞬でした。
私たちの日々の生活は、時間的にもこの世のことで一杯いっぱいだし、気持ちも、いつの間にかこの世の煩いに巻き込まれ、自分を失うことがしばしばではないでしょうか。チクショー、バカバカしいと思って投げやりになることもあれば、人への不平や批判、怒りに明け暮れるようになることもある。そのような時、自分を見失わないための言葉があるでしょうか。
もちろん、聖書の言葉です。聖書の言葉でも、礼拝の度に繰り返している同じ言葉となれば「十戒」や「主の祈り」です。さらに教会が産み出した言葉があります。上のような「信仰問答」や、また「讃美歌」もそうです。そして、もう一つ、教会で交わす私たちの言葉があります。私は、自分の言った言葉をいつも思い出せるわけではありませんが、よく人から言われるのは、「あの時、先生、こう言いました。」牧師としての言葉を覚えていてくださる。(忘れてほしい言葉のほうが多いかもしれませんが…)
聖書の言葉を暗記することは、得手不得手があるでしょう。しかし、毎週礼拝で口にする言葉や、歌う讃美歌、人との会話は意外と覚えていきます。途方にくれたり、困難な日は、必ずやってきます。その時に思い出し口ずさむ言葉を、私たちは教会の生活の中でしっかりと身に着けたいと思います。



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# by rev_ushioda | 2017-07-09 17:55 | Comments(0)

「礼拝を大事に」

「イエスは…いつものとおり安息日に会堂に入り…」(ルカ4:16)。

いつものとおり、いつもの場所で。このことは大事なことなのだ、と気づくのです。教会は、いつものとおり、いつもの場所、日曜日の礼拝を大事にします。

私たちの生活にはいろいろなことが起こります。外からの試練、内からの試練、襲って来る不安、恐れ、失意、落胆。そういうものによって、自分を情けなく思っているかも知れません。ひょっとしたら、憎しみ、怒りがあるかも知れません。湧き上がる欲望、傲慢、人への裁きに支配されるかも知れません。支配されていることさえ、気づかないかも知れません。イエス・キリストだって、誘惑を受けましたし、苦しみ悶えて祈りましたし、怒ることも、涙を涙されることもありました。そのような中で、いつもの通り、礼拝の場に立たれたのです。不安、恐れ、失意、落胆、憎しみ、怒り、湧き上がる欲望、傲慢などの克服の秘訣は、いつものとおり日曜日にはいつもの場所、礼拝堂に入ることなのです。淡々と、祈りの道に立つことこそが、すべての誘惑からの勝利の秘訣なのだ、ということです。

ティーリケという人の「主の祈り」という本を読んで、驚いてしまいました。この本は、戦争中、日曜日に礼拝堂で話された説教集なのですが、いたる所に次のような挿入文があるのです。「この説教はサイレンと空襲によって中断された」「この説教はこれを行う直前に教会堂が空襲のために廃虚となり、場所を移して行なった」…破局のただ中で、人の心はすさみ、希望をなくし、どんどん心を閉ざしてしまうのが当たり前です。しかし人々は集まり、祈りの生活を作り続けた。礼拝をまもることで、すさみ、閉じていく心を、逆に彼らは押し広げていったのです。この説教集は、原題が「世界を包む祈り」となっています。爆弾で礼拝堂が吹き飛ぶ中でさえ、いつものとおり、いつもの祈りができるとき、心の視野は、世界を包むほどに押し広げられる、と言うのです。

「いつものとおり」祈りの生活を作るとき、祈りは、私たちの貧しい心を、世界を包むほどに開くことが出来るのです。

礼拝への道がまもられますよう、祝福を祈ります。


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# by rev_ushioda | 2017-07-01 17:46 | Comments(0)

「1週間交代」

今、1週間交代で自宅、ショートを繰り返している。土曜日にショートに出かけ、木曜日に帰宅。1週間家にいて、また土曜日に出かけ、木曜日に帰宅。この繰り返しである。大変だなあと思ったら、また次のショートが来る。送り出したその1週間は、介護がなかった2年前の生活を取り戻す。
7月の終わりには伊豆の雲見に予約をとった。40年前、新婚旅行で泊まった地である。同じ場所で、写真を撮ろう・・  8月の終わりの週には、再び、中山道に立つ。夏休みなので孫と一緒である。

いい感じである。母は、6月26日に99歳の誕生日を迎えた。

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# by rev_ushioda | 2017-06-26 17:59 | Comments(0)

「日曜日を盗むな」

日曜日は、教会では「主の日」と言います。「私の日」ではありません。「主の日」、礼拝の日です。キリスト者は、洗礼を受けた時に誰も皆、そのように教えられ、洗礼の誓約で「礼拝を大事にしますか」と訊かれて「はい」と答えました。ですから、日曜日には何を置いても礼拝に行く人を「キリスト者」と言うのです。

それが、いつから「私の日」にしてしまったのでしょうか。仕事や試験、子育てなどが重なって、気づいてみたら「私の日」になったのではないでしょうか。気分で、行きたくないから行かない。こうして「私の日」にした人もいるのではないでしょうか。いろいろあって、「主の」ものを「私の」ものにしてしまったのです。

エデンの園で、アダムとエバが、取ってはいけないと言われた木の実を取って食べ、主のものを自分のものにした結果、どうなったか、皆さん、御存じでしょう。神と人とのコミュニケーションを破壊しました。神の前から隠れ、人間関係において責任転嫁し、子どもたちは、殺人事件を起こす。やがて人間が神のようになったと、「バベルの塔」はあらわしているのです。主のものは、私のものではないのです。それをしたら、すべてが歪み始めるのです。破綻するのです。

キリスト者にとって、日曜日は主の日です。主の日なので、私の日ではありません。私たち、日曜日は主の日として、私の手を開いて、主にお返ししようではありませんか。

子は父を、僕は主人を敬うものだ。しかし、わたしが父であるなら/わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしが主人であるなら/わたしに対する畏れはどこにあるのかと/万軍の主はあなたたちに言われる。

…あなたたちは言う/我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。あなたたちは、わたしの祭壇に/汚れたパンをささげておきながら…/あなたたちが目のつぶれた動物を/いけにえとしてささげても、悪ではないのか。足が傷ついたり、病気である動物をささげても/悪ではないのか。それを総督に献上してみよ。彼はあなたを喜び、受け入れるだろうかと/万軍の主は言われる。(マラキ書1章6~8節)


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# by rev_ushioda | 2017-06-01 17:50 | Comments(0)