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           牧師の部屋にようこそ     
               
   

       これは牧師の個人的なブログです。
       まず、教会の近くからの景色をご覧ください。これが教会のある場所です。
       晴れた日の夕方は、この場所は「観光名所」になります。
      (注:下の動画にはBGMが入っています)

           

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3.教会案内

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# by rev_ushioda | 2018-12-31 23:59 | Comments(0)

「年賀」

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# by rev_ushioda | 2018-01-01 01:53 | Comments(0)

「クリスマス会?」

「クリスマス会」という言い方に違和感があります。どこかの子ども会の、イエス・キリストなしの年末恒例のお楽しみ会に聞こえるからです。実際、教会のクリスマス(燭火礼拝)を案内していたある年のこと、電話がかかってきて、「ケーキとか食べるのですか?」 まさに「クリスマス会」のイメージだったと思います。昔、地域の学童保育所で、クリスマス会をするからお話をしてほしいと請われて、聖書からお話をしたことがありました。最近、その担当者がその時のことを話されました。「あの時、聖書のお話したんですよね。」「はあ…?」そこで、気づきました。期待していたのは、「クリスマス」のお話で、聖書の話、つまり、イエス・キリストの話ではなかったようだ、と。それ以上は聞きませんでしたが、牧師さんだからクリスマスの話をしてほしいと依頼してきたのですが、しかし、聖書の話ではない。ではどういう話かというと、そこで想像するのですが、年末助け合いとか、そのような、クリスマスにプレゼントをもらうことばかり考えないで、人助けするとか、世界の平和に貢献できる人になれとか、といったことが期待されていたのかなと。教会以外のどこもかしこも「クリスマス会」です。

クリスマス CHRISTMAS とは、キリスト CHRIST + マス MASS つまり、キリストのミサ(礼拝)です。イエス・キリストを礼拝する日、または礼拝の時を指すのです。それに「会」をつけると、「礼拝」と「会」を合わせた、妙な言い方なのです。クリスマスの時に合せて行う「祝会」という意味なら、まだ分かります。キリスト者でも「クリスマス会」と言う時は、おそらくクリスマスの祝会の短縮形として言っているのだろうと思いますが、似て非なるとはそういうことを言うのでしょう。「クリスマス会」は、この社会ではキリストなしの「お楽しみ会」という意味になっていて、本当のクリスマスを知らない社会が作り出した俗語なのです。

私たちは、教会においてはただしく「クリスマス」という、礼拝を指した言葉を大事にしたいと思うのです。(ただ、伝道的な意味では、この社会が馴染んでいる世俗の言葉の中に身を置いてイエス・キリストを紹介する「クリスマス会」をあえて使うのもいいのかもしれませんが。)
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# by rev_ushioda | 2017-12-19 00:31 | Comments(1)

今年は12月31日が日曜日なので、私たちの教会では翌日の元旦礼拝はおこなわないことにしました。また、いわゆる「三が日」に日曜日が含まれる場合も、元旦礼拝はおこないません。元旦礼拝は、してもしなくても良いと考えているのですが、では、「礼拝」と名がついたものをしてもしなくても良いのでしょうか。
礼拝をいつ行うかというと、それは教会歴に従っています。まず礼拝が毎週あるのは、主イエスが復活された記念の日だからです。そこから始まって1年を通じてクリスマス、イースター、ペンテコステがあるのも、教会歴というカレンダーがあるからなのです。
では1年の初めの日、「元旦」はどう位置付けられているかというと、カトリック教会では、「神の母 聖マリアの祭日」、聖公会では「主イエス命名の日」、ルーテル教会では「主の割礼と命名の日」としていますが、皆、同じ意味です。聖書を開くと、「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」とあります。12月25日がイエス・キリスト誕生を祝う日であれば、8日目というのは、1月1日となります。そこで そう、1月1日は「イエス命名の日」となるのです。(カトリックは名付けた母マリアに焦点を当てています)
プロテスタント教会の場合、上記の教会を除いて、特にこの日に聖書的な意味づけをしていません。むしろ新しい年の初めには1年1年を創造される主なる神を礼拝しよう、という、気持ち的なとらえ方によって、礼拝の時を持つようです。「初詣」に対して、教会では「元旦礼拝」をするのだと、証しの意味もあるでしょう。いずれにしても、教会歴ではないので、対応の仕方は各個教会に任されているのです。(教会暦では12月25日がクリスマス礼拝になるのですが、多くの教会ではアドベント第4主日をクリスマス礼拝と言って、教会歴さえも大事にしていません)1月1日は特に位置づけがありませんので、12月31日が日曜日、翌日が1月1日のような年の巡りの場合、私たちの教会では元旦礼拝はおこなわないことにしました。年末、そして新年最初の主日礼拝を大事にしていただきたいと思います。
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# by rev_ushioda | 2017-12-15 19:47 | Comments(0)

「新しい景色」

家の近くを歩いていたら、こういう場所があった。遠くは桜木町のランドマークタワー。手前は二俣川に最近できたマンション。相鉄線が渋谷につながれば、西谷、二俣川はこれから人口も伸びる街になるだろう。二つのランドマーク、新しい風景である。

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# by rev_ushioda | 2017-12-12 18:02 | Comments(0)

「渋沢教会」

毎年、12月に入って早々に牧師会のクリスマスが行われる。今年は会場が渋沢教会。良いお天気に恵まれた。これは礼拝堂から撮った写真で、大井先生はこんな景色を独り占めしていたのかと、うらやましくなる。

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# by rev_ushioda | 2017-12-05 20:24 | Comments(0)

「母の容体」

1週間はショート、1週間は家での生活が続いて、99歳の誕生日を迎えた。このまま順調にいくかと思っていたら、11月の半ば、ショート先で意識がはっきりしない、何とかの数字が低いということで夜中に電話があった。迎えに行くわけにもいかず、様子をみてもらうことにして、無事、朝を迎えた。それにしても迷惑も掛かるだろうし、1日早く、帰宅させることにした。
それから2週間を越えても、体調が回復しないままである。ショート先でのことは飲み始めた新しい薬の影響であったらしいことはわかったが、その後、食事をとらず、寝たままの状態で、25日に妹が来たときだけ、いやに元気になり、起きてきて今までのように食べたが、それも1回だけ。こんなに食べなくて大丈夫かと思うほど、食べない。話も元気がなくなった。かすれ声である。食べるのは1日にスプーン一杯くらいのおかゆの類だけである。

きのうの往診のとき、「老衰」とか、「ターミナルですね」と言われた。

確かに、こんなに食べないのでは、あと、もっても1~2週間だろうと思った。

ただ、目が覚めているときは冗談を言う。おかしくなっちゃった、と言いながらも、意識ははっきりしている。


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# by rev_ushioda | 2017-12-03 22:34 | Comments(0)

11月25~27日に今年最後の中山道行きの予定だったが、母の容体が良くないため、キャンセル。代わりに半日のドライブにして、宮ケ瀬に行った。夕日をうけてもみじが映えていた。反対方向を撮ると、次の写真。山間の夕方は早いが、向こうの山は明るく照らし出されている。

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# by rev_ushioda | 2017-11-27 21:33 | Comments(0)

「活動会員」

洗礼を受けると、その教会の「教会員」と呼ばれます。

教会員は、第一に、洗礼を受けたときのペースで、これからも礼拝出席を続ける人です。
第二に、月定・会堂献金によって、教会の働きを支える人です。額は自分で決めていただきますが、定期的にしてくださることが大事です。
第三に、年2回の教会員総会に出席する人です。泉教会の場合、教会員総会は長老を選ぶことが中心で、他に活動や会計の説明ですから、礼拝後の30分です。

ところで、洗礼を受けると、なぜ「教会員」になるのでしょうか。それは、一人ひとりにはキリストに従う者としての役割、機能があるからです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙一 12章 27節)と書かれている通りです。キリストの体の部分としての役割を果たすため、私たちは、教会の一員という、有機的なかたちを大事にするのです。たとえば、教会員総会で長老を選びます。その時に選ばれるのも、選ぶのも、教会員なのです。誰でも長老になることが出来て、また誰でも選ぶことが出来るのではありません。こうして選ばれた長老は、教会の牧師を招くこと、礼拝を招集すること、会員を受け入れることをはじめ、教会の活動全体に仕えるのですが、その「選ぶ」という一番大事なところ、キリスト者の信仰が立ちもし、倒れもする一番大事なところで、教会員が、かかわるのです。キリストの体の部分であるというのは、そういうことです。
洗礼を受けただけでいいではないか、と言う人もいるかも知れません。しかし、それは「群集」であることと、ほとんど変わりません。好きな時にあっち、こっちと動いてしまうのです。キリストへの責任を果たせる立場にいないのです。ですから、最初に挙げた3つのことが3ヶ月以上ない教会員は「不活動会員」とされ、当然のことですが、教会の責任を果たせる立場(選挙権・被選挙権)を失います。キリストに従う(キリスト者である)というのは、教会に生きる、ということなのです。教会に生きるとは、礼拝を守り、主が再び来られる時まで、教会を次の世代に手渡していくことです。群集であっては、その責任が果たせないのです。



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# by rev_ushioda | 2017-11-10 10:34 | Comments(0)

「妻、古稀の祝い」

60歳で還暦を迎えた後、70歳で古稀、77歳で喜寿。これから次々と節目を越えていくことになるが、ひと足早く、妻が古稀を迎えることになった。
「人生七十古来稀」なるほど、古来稀な人がわが伴侶かと思うが、さて、どのように祝ったらいいのか。考えたあげく、古来稀な仕方が分からず、結局、旅行ということになった。しかし、今までとは違う、70年に一度の部屋を取ろうということで、今までの4倍くらいの値段の「露天つき和洋室」というところに、行ってきた。じゃらんで探してみても、部屋に露天風呂がついているだけでは面白みがなく、あきらめかけていたところ、ベランダがあり、庭があり、開放感があって露天、かつ庭に面して室内風呂もあるという、ここに決めた。(和洋室というのはベッドがないと体中痛くなるので、洋室は欠かせないため) 場所は湯河原。ゆっくりすごせそうだ… 客室露天っていいなあ、でも、お風呂から出たら、妻は、もうベッドで眠っていた… やはり、古来稀な人である。
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# by rev_ushioda | 2017-11-07 10:36 | Comments(0)